2018年12月から2021年11月までの『逆境のビジネス略歴』を語ろう。 ③人は何故、生きて死んでいくのだろうか? Born to Die.
前回から続く内容のため、簡単に書く。
本編は、関係者の影響範囲がベンチャー業界において大きいため、個人のオンラインサロン上での限定公開としています。
そのため、そちらの会員登録を実施いただいた上で、ご覧くださいませ。
さて、本件は前段で語った通り、以下のような事象が重なったことから、私自身の心身のバランスを崩してしまい、結果としてうつ病的な状況になって貴重な人生のトキを約2年間も棒に振ってしまったのだった。今にして思えば、それすらも貴重な体験だったと思えるのだが、本当にウサギとして時間を大切に生きてきた自分からすると、本当に信じられないほどの時間の浪費っぷりだった。
ただただ、笑うしかない(苦笑)
・イベントはトラブルが憑き物
・人生初めての銀行からの個人保証借入
・法人のキャッシュフローの悪化
・香港民主化暴動
・共同創業したベンチャー支援企業の解雇
・個人のキャッシュフローの死
・心にアクが溜まる生活、仲間に嘘つく日々
・ココロの病が発症する
・家族やまわりの人達の離反
・人生の終わりに。
是非とも、皆さんに読んでいただきたい(苦笑)
これほど、濃い起業家のハードシングスを他で見ることは、まずないだろう(大笑)
では、チャオ!
齢三十七にして天命を知る。
齢37歳にして、いよいよ、天命を悟ったのかもしれません。
まんざら当たらずも遠からず、という感じで今は思っていますが、さて、どうやら(笑)
ただ、昨日みた作品は作り手の名匠とともに圧倒的に凄すぎる存在としてそこにおられ、彼らが生み出した自信作の展示品に見惚れて激しい刺激を受けたというのが私の正直な感想です。
ホンモノは、いつの世も圧倒的な力を帯びています。
そして、そのホンモノは創られてから100年経とうと、また、1000年経とうとも、全く色褪せることなく、また、その素晴らしい作品を生み出した作者の技と想いとを後世を生きる人へ見せて伝えることができます。
私は、ベンチャー企業を支援するというライフワークを行っています。
起業家が、どういう想いでベンチャーを生み出したのか、その志に共に震えて応援をさせてもらい、彼らのサービスを世に広めたいと思う。
その根底には、常に、この書籍にある言葉『【後世の最大遺物】を創っていけてるのか?』という問いが、私を支えています。
すでに、没後90年を越える偉人であり、彼の講演録である内村鑑三 後世への最大遺物(1897)は、発表されて既に100年をゆうにこえる名著です。
この書籍の一節にある、言葉はあまりに有名であり、私はこれを読んで当時涙したのを覚えています。
「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより、世の中を少しなりともよくして往こうではないか」
この逸話を読んだ私の心に一番最初に浮かんできたイメージは、死んだ父のことでした。
父との想い出は、本当に多くある。
私は父が好きでしたし、父も私を可愛がってくれていたと思う。その父が私以外の方々と共有した彼の人生の時間も、相当に濃い実りあるものだったのだろう。
父のエッセイがそれを物語ってるように思うし、父の残した科学の足跡の数々は彼の生きた時を肯定するものだと思っている。
さて、話が横道に逸れてしまった。
最近、閃いた私なりの人類の分類方法があります。
それはそれぞれの特徴に応じて、人類を三種類に分けることができる、というものです。
本説は、まだ仮説の域を出ないのですが、我ながら非常に趣に富んだ考え方だなと自画自賛の状態ですので、ご笑覧いただき、是非とも感想なり反論なりのご意見を頂戴したいです。
では、この論説を説明する背景情報を共有させていただき、進めたいきたいと思います。
学生時代の私の人生の目的は、【人類を科学の力で進歩させる】でした。
それは昆虫の分類学という、基礎的な科学の発展を自らの手で進めることで、人類に貢献したいということでした。(科学者)
ただ、21歳の時の父の死や私自身の考え方の変遷により、やりたいことを【昆虫博士になりたい人を応援/支援する】に変化させました。
それはつまり、自分が科学者になり研究に没頭する生き方をするのではなく、ビジネス環境や一般社会の中で生きて(一般人として)、そこでの知見や得た富を科学の発展に投じていこうということにしたのです。
そして、そのビジネスをやっていく道すがらで、ヒョンなことから出会った芸術家との出会いがまた私の考えを変えていきました。
芸術家という生き方をする方々は、作品制作の過程における多くの時間を一人きりで行い、その間の一切の孤独を受け入れ、自分の頭と心の中に浮かんだイメージを絵や造形物、音や詩などに載せて、まわりの他の人に多くの場合は言葉以外の伝達方法で伝える人たちなのです。
さて、少しここでまとめると、以下三種の人物が登場しましたね。
・科学者
・一般人
・芸術家
ざざっと登場人物を整理してみましたが、私自身の人生の歩みの過程によって、3つの人の分類があることに気づいたのです。
つまり、我々人類を強引に3つに分類すると、
- 【①科学者】 0.03%程度の、天才科学者とそれに類する人たち
- 【②芸術家】 3%程度の、芸術家、アーティストたち
- 【③一般人】 残り97%の、私を含む一般の凡人たち
ということになります。
この3種の人たちはそれぞれに生きる価値と人類への異なる貢献の仕方があると私は思っている。
ちょっとだけ、野暮な説明になってしまうのですが、①と②の方々は、③の存在が無ければ、成立しません。
なぜなら、①の人たちを支えるのは③の多くの人類の生み出した生産物(エネルギー、食品、生活インフラ等)によって生活が出来ており、③無くして①と②は成立しません。
そして、一方の③の我々は、①と②の存在が無ければ、人類種としての進化・進歩がなく目の前の社会問題や環境問題においてなす術もなく滅んで行くか弱い存在でしかない。
更にいうと、①と②もそれぞれが相互に刺激し合う関係である。①の進歩によって手法や技術を変えて②は工夫を凝らす。②のアイデアや視点により①もまた科学を新しく進化させることとなる。
この三者の関係は地球上の生物種における生態系と同じように、①も②も③も絶対に人類の存続と発展に不可欠な存在なのである。
そういう意味では、3つの分類された人類全てが生きる役割が異なって存在しているというか、天命がそれぞれにあるのだと思う。
それぞれにおいて人生の使い方がそれぞれにあるんじゃないかなと思っている。
さて、話が壮大になってきてしまった。
そろそろまとめに入りたい。
私が好きな【“働く”という言葉の語源に関する逸話】がある。
それは、孫泰蔵氏が話しておられたもので、大変納得感のあるものであり、私の仕事観に大きく影響した話だったので、ここで是非とも共有したい。
江戸時代、平和な日本国では、多くの町人は日々の生活において、さまざまな仕事に従事していた。
彼らは、『そんなことは朝飯前だぜ』などということを言いながら、日々の仕事をしていようだ。
彼らにとって【働く】という言葉は、【側(はた)を楽(らく)にする=側楽(はたらく)】という意味だったというのである。
この側(はた)とは、身のまわりの人たちのことを意味している。
つまり、【働くこと】とは、まわりの人が暮らしやすく、もっというと生き易くするために、【はたらく】のである。
この話を聞いたときに私の腹にこの逸話はストンと落ち、身体に沁み込んだ。
なぜなら、120%の共感があったからだ。
そもそも私自身は、自分のためには一切頑張れない人間だからだ。
自分の欲のため、名誉のため、お金のためなんかに、全然頑張れない。一生懸命になれない。
いつも、他人のことを、身の回りの人のことが動機付けになる。
そうでないと、楽しくないし、ヤリガイを感じない。やる気が出ないのだ。
コレってみんなが持っている感情なのではないだろうか?
人類という種族は、他者貢献をする事がプログラミングされた生き物で、他者から受ける感謝や感動による原動力が生きる糧になっている種族なのではないか?と。
私事でいうとまわりの人たちが、『助かったよ!ありがとう!』と言ってくれたり、『山口さんがいてくれて良かった!』と言ってくれたらとても嬉しい気持ちになるし、生きててよかったなぁと実感する。
人によっては、そんな他者評価にいちいち影響をうけるのは『大人じゃない!』とお叱りを受けるかもしれません。
一方で『そんなのは大人じゃない!』とお叱りを受けたとしても、私は大真面目に“自分自身は既に大人である”という自負があります。
その反論にお答えするためにも、前提として私の思う【大人】の定義を共有しておきたい。
私にとって大人とは、『自分自身の特性を理解し、自分を取り扱える人物』のことだからだ。
私は逆境のビジネス略歴の日々を通じて、確実に自分自身のことを一つ一つ理解してきた。
時に死ぬ思いをしながらも、自分自身が何が好きで、どういう状態が嫌いかを一つ一つ不器用に学びながら人生を歩んできたから、そう思えています。
・・・
福岡への出張の飛行機内で書いているからか、話があちこちに逸れてしまってますね、、、
この文章を書く当初の目的は今日2021年11月6日に東京の六本木ヒルズで開催されているアートイベントにぜひ足を運んでいただきたい!ということでかきはじめたのだが。
今日このイベントの場にて、とんでもない生ける伝説の名匠の日本人たちとその作品に出会えることだろう。
その方々の生き様を見て、感じて、どのような想いを持たれるのか、とても楽しみである。
最後に一言。
今まで生きてきて私自身の天命は、
【全ての人がハタラク事を楽しんで生きて死んで行ける人類社会】を創ること、だ。
その為には、自分の持ち場でシッカリと付加価値をうみだして、利益を得る。
その利益から生み出される新規投資予算と報酬をもとに、
科学者には寄付を、
芸術家には作品購買を、
起業家にはエンジェル投資と事業支援を、
適宜おこなっていきたい。
それによって結果として全ての人が幸せを感じられるハタラク人類社会を私は創っていきたいと思います。
チャオ!
2018年12月から2021年11月までの『逆境のビジネス略歴』を語ろう。 ②嵐が吹き荒れて、その雨風はやがて大河になった
前回までは、調子に乗っていた2018年の話をしました。
この嵐は、最初は小波なんじゃないかと思っていた、大体、そんなものだろう。
最初は全然、その事態の影響範囲なんて、見積もれないものなのだ。
38年生きてきて、最悪の嵐が、まさに起ころうとしているとは、当時の私は全く思っていなかった。タイムマシンが発明されたとしても、この頃の自分に何か伝えられたらと思うが、結局、何を伝えても何も伝わらないだろう。それほどに当時はその深刻さを分かっていなかった。
話を戻そう。
2019年2月に、最初の試練が起こる。
ベンチャー界隈ではとても有名で、大企業がスポンサードしている某イベント運営会社と当時、共同代表として任をおっていたベンチャー企業とのトラブルである。
関連する記事はこのあたりに当時書いている。
そして、ここで大変申し訳ないが、一旦筆を置くことにする。
と言うのも、これ以上の本件含めたやりとりや背景の詳細については、あまりにもベンチャー業界の方々に影響が大きく、また、ベンチャー界隈の方にしか伝わりにくい内容と特殊情報になるため、これ以上の情報公開は関係者からSNS等でDMでの陳情依頼を受けて私なりの判断もした上で、一般公開は辞めることとしました。
と言うのも、私の言動や発言が、誰かの不利益になってしまうことは意図していることではなく、ここからの先の私がダークサイドに落ちていく話は、私の個人でやっているオンラインサロンにて、継続してお伝えしたい。
おい!と思った方は、無料で開催されてるオンラインイベント等では、個別質問において関連の発言をする可能性はあるので、そういう機会にたずねていただきたい。
直近では、こういうイベントに登壇予定がある。(ご参考までに)
(11/25木曜 開催)スタートアップを成長させる エンジェル投資とは -The First Angel Investor- 山口氏に聞く
この後日談としては、この辺りを語ろうと思います。
・イベントはトラブルが憑き物
・人生初めての銀行からの個人保証借入
・法人のキャッシュフローの悪化
・香港民主化暴動
・共同創業したベンチャー支援企業の解雇
・個人のキャッシュフローの死
・心にアクが溜まる生活、仲間に嘘つく日々
・ココロの病が発症する
・家族やまわりの人達の離反
・人生の終わりに。
おっと、誰かが来たようだ・・・・
チャオ!
2018年12月から2021年11月までの『逆境のビジネス略歴』を語ろう。 ①2018年から嵐前夜
今は、とっても話したいことがたくさんある。
もう2年間も自分の殻に閉じこもっていたからだ。
その間は、Netflixがお友達であり、コンテンツ地獄というか、ずっと夜通し見てたような気がする。(マジで全然寝れない、寝れないからw)
一分一秒を惜しんで生きてきた、35年分の“ウサギ”生活が嘘のように、“カメ”どころか、仮死状態な日々だったように思う。
さてと、あまりにSNS上の方々から、仄暗い話を聞きたい、人の不幸は蜜の味だということで、私の逆境のビジネス略歴の続きを語っていこうと思う。
それ以前の、21歳から35歳までの『逆境のビジネス略歴1』は、こちらから。
ちなみに、
さらにさらにその前の、0歳から20歳までの『逆境のビジネス略歴0』は、こちらからw
なお、この話はすごーく長いのと途中で飽きられると悲しいので、何編かに分けさせてもらって、話を進めていきたいと思う。
なお、ここで語る内容の全ては、私が得た情報と私の視点で語られているために、関係者はそれぞれの意見や視点でのコメントがあることだろうと思う。
それはその人たちの言葉で意見をしてもらって一向に構わないし、それはそれぞれが持つ人生のエピソードとして、ぜひとも、個々人が話せば良いと思う。
私の人生の一編を、私は私の自由意志を持って、ここに体験し見てきたことを吐露したいと思う。
さて、あの頃は、非常に調子に乗っていたなと、今思い出すだけでも、顔から火が出るほど恥ずかしい(苦笑)
2018年12月・・・・
そもそも、なぜ、私は香港への居住をトライしようとしていたのかについて、語らねばなるまい。
2013年から、コツコツとエンジェル出資を重ね、投資先のベンチャー企業の方々は着実にIPOに近づいていた。
ある一社は、早くも2018年度中(つまり、2019年3月末まで)に、株式公開を控えているという状態にまで、なっていた。
この朗報は、当然ながら私自身を勇気づけもし、また、直近の様々な金銭的な憂鬱(例えば、自分の生活費等のキャッシュフローや欲しい物があれば何でも買えること、など)をすぐに解決しうることが見えていた。
有頂天とは言わないまでも、天狗にはなっていたように思う。
昔からのベンチャー業界の仲間たちに対して、横柄な態度をとっていたようにも思うし、実際に何人かからは後日『あの頃のお前はホントに感じ悪かったぞ!?』と言われたりもした。
自分でも気付かぬうちに、本当に嫌なやつになってしまっていたなと今は反省しかないが、本当にこの世は我が物と思うような態度で、世界の事柄のすべてがトントン調子に進み、何をやるのも楽しかったし充実していた。
最初の問いに答えよう。
私が香港を目指した1番の理由は、『キャピタルフライト』が目的だった。
日本国では、株式の取引において、利益の2割が分離課税として国に徴収される。
一方で、シンガポールや香港などの地域では、その利益分の2割を徴収されることはなく、利益を100%自分のものにできるのである。
個人でのお金持ちは、そのために居住地を日本国外に移し、確実の個人の資産を形成するような活動をしている。
それ自体は違法ではなく合法であり、よく国家制度、法律を知っている方であれば、当然に取りうる手段なのである。
さらに、日本の特殊事情がそれに重なる。2015年より開始された1億円以上の資産がある人物の海外への居住地の移転は、国外に出るタイミングで40%の課税を課されるのである。
この国家的な法律によるキャピタルフライト封じについては、このフラクタ等の記事が詳しい事情が書いてある。
https://facta.co.jp/article/201508050.html
http://www.kanayamakaikei.com/news-detail.php?id=45
さて、私の場合は、本当に少額でのエンジェル投資を重ねてはいたのだが、株価で見ると数百倍の株価になっているケースもザラにあった。それらが上場をしてしまうと、私自身は海外に住んで暮らすという夢は叶えられなくなる。(納税額が重すぎて・・・)
そのために、私自身は、投資先が上場をする前に出来るだけ速やかに海外への居住地の変更を進めていたのだ。それは奇しくも、日本のベンチャーの海外進出を支援したいという想いと、人生の師である原丈人氏が世界での活躍の場をサンフランシスコやイギリスから香港に移したという事実も大いに関係していた。
2018年の年の瀬は、香港へのビジネス拠点の移動、そして、それに合わせて家族での住居や生活環境の一変を同時進行で進めていた。
多拠点生活
このキーワードは、ランサーズ時代から、私の周りではよくあるキーワードであった。著名な起業家は当然ながら、フリーランスや自由時代の到来を実現し体現する方々は、みな多拠点生活をしているくらいには、多くの方々の新しいライフスタイルとして、それは憧れのキーワードだった。(今の私は、全くそれに順応できないことが身に染みてわかっているので、もう多拠点生活はしたくないと思っているのだが。。。)
東京と香港、どちらも世界を代表する大都市である。
本当に豊かさを体現する街並みと洗練された人々が足早に通り過ぎる眠らない街の摩天楼。
香港と東京、どちらが立派な街かという問い自体がチープなほどに、両方の都市は似ているし、集まる人々も同じような価値観や人生観を持っているように感じていた。
そこで、2018年のゴールデンウィーク時期にたまたま遊びに行った長崎県の国境離島の島、壱岐島に行ったことで私の人生においてこの島とのご縁ができることになった。
壱岐島についての想いは、ここに語っているので、参照されたい。
結論から言うと、私は、家族との暮らしの拠点を長崎県の壱岐島に置くこととした。
そして、仕事場としてのメインを香港、サブとして東京と言う3拠点生活を始めることとして2018年の年末は動き始めていた。
事前の準備も滞りなく進み、2018年12月には無事に、プロトスター社の香港事務所がオープンできた。(と言っても、オフィスは友人の会社へ置かせていただく間借りスタイルで固定費を最小限に抑えつつ、私自身の移住を待つばかりと言う状況になった。)
色々と準備と段取りが進み、キャピタルフライトに耐えうるためにも、資産(現金)をほぼ現物(新進気鋭の若手アーティストの作品、日本らしい美術品)やベンチャー企業の新規投資をすることで、使っていった。
あまりに熱心になりすぎて、家族にお金を借りてまでアート作品を買う始末で、本当に今思うと暴走していたなと反省しかないのだが。(苦笑)
そして、2019年の年始、新しい一年が始まり、新しい生活に備えての準備が順調に走り出していた。
当時の私のアート熱は、2016年ごろにたまたま、ニューヨークで国連とのお仕事をしにいった際に戻ることとなる。
そこで出会ったアーティスト、梶川さんの生き様と作品に心を奪われたことから、私はアーティストの作品を買うことに執着するようになる。
彼は、間違いなく現在生きてるアーティストの中でトップクラスにすごい人だと思うので、是非とも、みなさんも彼の作品をリアルに見てもらいたい。
彼の作品も含めて、それまでに集めたアート作品を個人所蔵品の展示会という形でイベントも行い、個人アート展もクラウドファンディングを行って実行したのも、2019年3月のトピックである。
プライベートの話、そして、2018年以前の話、2019年2月の話までがある程度かけたかと思う。
ここもっと聞きたいというご意見等があれば、こちらのオンラインサロン【The First Angel Investor】にて直接呼びかけていただければ、対応できるので、ぜひお願いしたいです。
そして、ここから目まぐるしい逆境の日々がはじまるのである。
嵐の前の静けさ、とはこのことなのだろう。
自社主催のイベント炎上、香港民主化運動事変、遠隔ビジネスの破綻、コロナによる世界規模のパンデミック、、、、などなど、誰が事前に予想できたろうか。
・・・つづく
七転び八起きの山口豪志 【寄稿No.5】
山口さんとの出会いは私の前職時代からだが、定期的に進捗確認のミーティング(けつ叩き役)をやり始めたのは2018年ごろ。
ご本人が書かれてる通りイケイケで、ヒカリエのカフェでなんか色々話をされていたのは覚えている。
山口豪志さん本人から暗黒期を知る男としてどのような状態だったのか書いてくれというオーダーを出すのも山口さんらしい。
が、いざ書こうと思うとなかなか筆が進まない。
なぜか
それは山口豪志の暗黒期は「変化がない」からである。
言い換えるといつもは変化に富んでいるのに、この時期はほぼ変化がなかった。
変化がないため、一緒にいる人間にも記憶がほとんど残っていない。
イケイケ期は、よくもこんなにどんどん新しい人との出会いや情報が入ってくるなと、定期ミーティングのログを残すときには思っていたし、ベンチャー成長請負人はこういうことを考えて動いているんだな気づくことも多かった。
記憶を辿ってみると・・
ちょっとおかしいぞとなったのは、
週に2回、7時30分ぐらいから山口さんの頭の中を整理してケツを叩くミーティングに参加できなくなってきたときあたりだったと思う。
最初は夜遅くまで会食とかしていたからかな?そもそも朝弱いだけか?など考えていたが、
ミーティング時のキレも無くなってきて、画面の前には寝起きのパジャマを着た“おじさん”がいるだけの日も増えてきた。
思い出すと、こういう言動が暗黒期の山口さんには多かったように思う。
- 7時30分からのミーティングに出て来れない
- ミーティングに出てきても何をしているかわからない沈黙の時間が結構ある
- 定例ミーティング2週間スキップもザラ
- ミーティングに出てきたとしてもほぼその期間は寝起き
- 話を聞くとそもそも寝れてない
- 話を聞くとゲームをして1日を過ごしていることも
朝に弱いだけならいいのだが、仕事関連でも
- 新しい人からの相談やプロジェクトの話が出てこない
- 新しい情報があまりはいってこない
- これやりたいということが行動に移されてない
- これ本当にやりたいの?という仕事の相談をしてくる
- お金の使い方が大学生のようになる
- 時間をお金で買わなくなる
一緒にプロジェクトを進めているお客さんとのミーティングの場でも
- ミーティングの途中で寝落ちしている
- お客さんが説明したことを再度質問している
ご本人の記事にも書いてあったがお金がない時は本当になくて、朝の定例MTGの時も銀行残高とお金の工面の話をしていた。
冗談じゃなく本当にバイト代を使い果たした大学生のように、お金のやり繰りをどうしようかというのを考えていたようだった。
【貧すれば鈍する】というように、徐々に心も摩耗していったんんだろうなと。
経済面だけでも維持できてたら、ここまで落ちなかったかもしれない。
こういう日々で、何か私が手を差し伸べたことでどうこうできることはないだろうとも思って、とりあえず定例ミーティングは毎回開催する、メッセを送る、ミーティングに参加したら合格ぐらいのスタンスで接していたし、起きてるかどうかわからないパジャマのおじさんを画面越しにみながら、このままこの人が死んでも仕方がないな、とも思った。
・・・と、ここまで書いていて、よくもこんな塩対応ができていたなと自分でも酷いやつだなと思う(苦笑)
ただ、一方で2016年の全国行脚でも心身と経済面、ともにシンドそうだった時を乗り越えた山口さんを知っていたので、きっと山口さんなら何かのきっかけで復活してくるだろうという確信はどこかにあった。
(余談ですが、2016年の全国行脚時で大型のスポンサーを決めた時は、神谷町の街中で、いきなり山口おじさんにハグされたのだった。そのときはその時でやっぱり結構ヤバい状況まで山口おじさんはキテましたね。笑)
- 貧すれば鈍する
- お金は大事
- 持つべきものは友
という人生で大切な教訓を体を張って教えてくれた山口さん。
私はといえば、
『また、どーせ山口さんのことだから、今後も色々重なってダークサイドに落ちる時期もあるだろうな』
と思いながらも、良い時も悪い時も同じように“塩”対応しますので、どうぞあれこれ自分の好きにやっちゃってください!
寄稿者:
なぜ、今わたしが【アート】に最も注目しているのか?
私の出自は、理系である。
そして、生物学を専攻し、昆虫の生態へ関心を持ち、幼少期からずっと生き物に興味を持て学びを続けて大学の卒論まで書いた。
その頃、20代の私は、科学以外はほぼ無意味であるとさえ思っているほどには、ゴリゴリの科学信奉者だった。
それはある側面においては、圧倒的に正しい。
なぜなら、我々人類を進化させてきたのは、間違いなく、テクノロジーだからである。
・火を起こせるようになった
・稲作ができるようになった
・野生動物の家畜化
・車輪の発明
・反射炉の開発
・蒸気機関の発明
・黄金比
・ゼロの概念
・星座の観測と太陽暦
人類の過去の科学的な発明は枚挙に遑がない。
それほどまでには、人類は、本当に科学の進化の速度とともに、成長し拡大し、地に増えてきた種族だと思っている。
この過程でのモヤモヤはこれを参照されたい。(2019年のブログ記事だ)
その上で、今はそれを否定したい。
人類の可能性は、科学技術だけに依存するものでも、科学技術だけが正しいものではないと心から思うからだ。
まず、科学ということについて論じたい。
一般的な辞書的な意味はこうだ。
《science》一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。 また、その成果としての体系的知識。 研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。
科学とは、前提条件として、再現性があることであり、実験室のような同一条件下での同一の反応を体系化してまとめたものである。
つまりは実験者によって、対象者によって、また、場所によって結果が変わることはあってはならないのである。
これはとても重要であり、大切なことなので、何度もいうが、科学とは反復性があり、また、誰がやっても、結果が同じこと、世界のある意味では法則を詳らかにすることなのである。(本当に素晴らしいことだし、これが人類にとってはなくてはない探求であることは一切の疑いの余地はない!)
さて、その上で、イノベーションということについても論じたい。
図らずも、wikipediaの書き出しにおいて、重要な示唆がある。
以下、引用する。
イノベーション(英: innovation)とは、物事の「新機軸」「新結合」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)のこと。一般には新しい技術の発明を指すという意味に誤認されることが多いが、それだけでなく新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革を意味する。
なぜ、イノベーションという言葉は、日本社会において科学分野だけに閉じているのか。
それは、日本が元来、科学信仰が強い国だったからではないかと思う。
明治新政府の頃から、日本は海外の科学技術を得て、それを自国で実現できるように、キャッチアップを続けてきた国民性がここ二百年くらいで染み付いている。
本来は、とても多様な国家だと思うし、戦前の煌びやかな日本の姿を写真を通じて見る限り、今なんかよりももっと面白い国だったのかなと思うほどには、日本は素晴らしかったのかなと想いを馳せる。
話が逸れてしまったようだw
さて、つまり、イノベーションとは、科学技術にだけの専売特許ではないのだ。
ここが重要なことなので、もう一度引用すると。
イノベーション(英: innovation)とは、物事の「新機軸」「新結合」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)のこと。一般には新しい技術の発明を指すという意味に誤認されることが多いが、それだけでなく新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革を意味する。
この緑色をつけた部分にこそ、本当に重要なことがあると思う。
新しいアイデアや視点を提供する人は、とても社会にとって尊いのである。
それはつまり、アーティスト自身のことを言っており、また、アーティストが生み出す芸術作品のそれがまさに、幅広い変革をおこすのだ!
それってすごいことだと思うのだ。
科学技術の世界は、本当に一握りの天才だけが、そして、政治がうまく、また、論文をまとめて、上司や周りから気に入られて出世するごく一部の人の特権的なイノベーションだ。
それはそれで本当にすごいことだし、今回のコロナワクチンの開発に見るように、直接的に人類に大きな貢献と意義がある。素晴らしいし、文句は一切ない。
でもだ。
本当にそれだけが人類への貢献の仕方なのだろうか。
私はずっと、長い時間そのことに対しての違和感を持ち続けてきた。
自分が昆虫学者の夢を諦めた時から、どこかで自分の人生の意味を探し続けていた。
そして、気づいたのだ。
アーティストやアート、芸術の本当の意味は、上記に記載した、
新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革 = イノベーション
なのだと。
これには、我ながら大変に驚いた。
そして、夢と希望が生まれた。
皆、生まれながらにしてアーティストであり、個人として何かを生み出していくことができる。人類全てに貢献しうる価値を、一人一人が生み出せるのだ。
そして、生きてきた、生まれてきたことを、後世に残すチャンスがあるのだ。
これこそ、アートの面白さ、アートの可能性の真髄なんだと思った時には、飛び上がるほど嬉しかった。
私は、昆虫学者を諦めて、ベンチャーの世界に飛び込み、そして、荒波に揉まれながらも、なんとか生きてきて、そして、その中でも欲として人類を一歩前に進める、進化に貢献したいと本気で思ってきた。
それをなすために生まれてきたのだと信じて疑わなかったが、ただ、科学技術という圧倒的に素晴らしいイノベーションに対しての引け目をずっと感じていた。
でも、その必要はもうないのだ。
科学技術と同様に、アートや個人が生み出すアイデアや視点は、等しく価値があり、人類の進化に資する可能性が十分にあるのだから。
はぁ、
ちょっと熱くなりすぎましたね。
要は、世の中には2種類のイノベーションがある。
この2つ目のイノベーションを、起業家の先輩である熊崎さんは、【意味のイノベーション】と呼ばれた。
これこそ、まさに凡人である私でもチャレンジできる素晴らしい人類への貢献の可能性だ。
さぁ、ワクワクしてきたので、今日はもう出かけようと思います、チャオ。
人生最低な時を最も近くで見た、起業家Kの証言 【寄稿No.4】
54ブログの読者の皆さま、はじめまして。
起業家Kと申します。
山口豪志と出会ったのは、僕が田舎から上京した2012年のおよそ1年後、会社を設立した直後の2013年の夏頃でしたでしょうか。
たまたまサービスを利用いただき、たいそう気に入ってくれたのがきっかけで出資していただき、エンジェル投資家と起業家という関係で付き合いが始まりました。
彼は本当に面倒見の良い兄貴という感じで、たくさんの人を紹介していただき、有益なアドバイスもたくさんしてもらいました。
彼のエンジェルとして特筆するところは、どんな状況にあっても決して見捨てることなく変わらず応援し続けてくれるところです。
詳細は割愛しますが、売上が想定より伸びず、会社の組織が崩壊し、倒産寸前までいったことがあります。
そのときも諦めることなくポジティブな言葉をかけ続けてくれたことは、本当に救われました。本当に。
そんな、いつも快活でバイタリティがあり、楽天的な彼の様子がおかしくなったのは2019年に入ってからです。
共同代表をしている会社を辞めることに端を発したようでした。
彼は当時、長崎の壱岐に家族と移住し、会議など仕事がある時に東京に来ていたので、その時の宿として私の家にちょくちょく泊まりに来ていましたから、そのことの報告はすぐに受けました。
その時ぼくは「会社クビになった上に、家出少女みたいに家を転々してるアラフォー、ウケるw」みたいな今思えば最低なことを言ってゲラゲラ笑った覚えがあります。笑
この時私は精神的にまいっている状況に気づいていなかったので、いつもの調子でこんな最低な軽口を言えたんですが、その後も「社会保険関係やら住民税やらドカッと来たらどうしよう?」とか「夜全然眠れないんだよね」とかたびたび不安や不調を口にしていて、「おや?」と思ったのを覚えています。
実際に夜中にふと目が覚めた時に、山口さんがうなされているように悶ているのを見るに至って、これは本当に精神的に参ってるなと鈍感な僕でも流石に異変に気づきました。
決定的だったのは、ある日眠っているところに、夜中に山口さんが「ちょっと一緒に寝させてくれ」ともぞもぞと同じベッドに入ってきた時でした。
客観的みると、おっさん2人が同じベッドで寝るという中々な状況ではあるのだが、それくらい精神的に追い込まれているのを目の当たりにして、どんなに悩み事がなく、強く見える人でも状況によって人は簡単に死にたくなるのだなと。
そんなボロボロの精神状態の中でも、彼は決して涙は見せなかったし(感動の涙はすぐに流すが笑)、泣き言や愚痴をいつまでも言い続けることはなかった。
夜眠れる方法は片っ端しから試していた。
耳栓とアイマスクをして眠ったり、筋トレや運動が良いと聞くと、家で腕立てしたり、ジムで走ったりした。
夜寝る前にホットミルクを飲むと良いらしいと聞けば、それを飲んでいた。
僕は悪い状況の時に、どういう行動を取るかでその人の本当の人間性が見られると思っているのですが、そんな時に彼は大きな不安や苦しさを抱えながらも少しずつ前に進んでいました。
そんな姿を見ていて思うのは、必ず復活する時が来るだろうし、ここを乗り越えた時の山口さんが楽しみだなと思っていました。
そして、そんな悪い状況の時に変わらず寄り添うのが本当の友人だと思っています。
僕はそういう友人でありたいし、困った時に遠慮せず頼って来てくれる人がいるのは嬉しいことだなあと思います。
服を一緒に洗濯して彼のパンツをたたんでいる時は、おれ何やってんだろと、ふと我に帰ることもありましたが。笑
そんなこんなで東京に居を構え、家族を壱岐から呼び戻すことになり、同居生活も終わって荷物を引き払う時に、ハグをしたのも良い思い出です。
おっさん2人がマンションの前で抱き合うのも中々ですが。笑
そして今、すっかり元気になった山口さんを見て、本当に良かったなあと心から嬉しく思います。
人生は長丁場です。
良い時もあれば、悪い時もある。
良い時はともかく、悪い時にも変わらずそばにいる友人でありたいし、恩人にはいつか恩を返したい。
山口さんはもう不要でしょうから、一緒に後世へ遺物を残しましょう。
友人 起業家Kより