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ビジネスモデルまにあ

美術史観 山口豪志の場合

2022年、人々はまだ、自らがどの様にありたいか、どの様にあるべきかを自問自答し、迷いの中にある。
 
ただ、その答えは人類史の中にこそある、と私は考えている。
 
 
 
今回は美術の歴史を、アートビジネスの切り口で振り返りたい。
 
 
ギリシャ古代文明のような時代からも確実に、美術は存在していただろう。
だが、美術や芸術より先に、別の存在があったのではないか、と思う。
 
 
人類は狩猟採集時代から農耕社会へ変化していく。
農耕社会においては、天候や自然に環境が影響されることがある。
人間では制することのできない自然の特別な力に、
我々の人類の祖先は神のようなもの(=未知なる存在)を概念として生み出し、
それを認識して集団社会としてのまとまりを形成するべく、宗教の原型が生まれた。
 
古代から続く人類社会で最も多くの人々を従えていたローマ帝国では紀元後392年に、キリスト教を思想の中心に据えて、人々を治めていた。
 
そのキリストの経典である、【聖書】に記載された神の奇跡を再現する為に、実験と研究が進められたことの蓄積が、現在の【科学】のはじまりである。
 
一方で、美術・芸術は、キリストの奇跡を具現化して示し、言語が異なり、また、生活習慣の違う人々に間でも畏敬の念を抱かせるために始まった。
キリスト教の力や凄さを伝えるために、建築技術が発展した。
当初は石を基礎に造られた教会、その教会に置かれる祭壇や宗教儀式において使われる神具に金属や鉱物、宝石を活用したのだ。
 
 
・人類の集団生活をまとめるべく、宗教が生まれ、その神の力をもって、人は科学と芸術・美術を発展させてきたのだ。
 
 
その後の3つの変化はとても興味深い。
 
いわゆる世界史的なアート業界の勃興と、日本史的な美術業界の勃興をそれぞれの背景の年代とともに伝えていきたい。
 
 
□世界史的なアート産業の勃興
 
キリスト教の発展によって、ヨーロッパ世界はほぼ共通の価値観を持ち、
教会が各村や町に置かれ、その町の中で、教会に関わる大工、工芸師、芸術家が生まれた。
その数は、村人20人のうち1人以上というから、かなりの数の人が今でいうところの教会勤務をしていたことになるのだろう。
 
この時点での美術は大半が教会自体の装飾品と建築であり、それはつまり、不動産なのである。
 
しかし、キリスト教史において、大きな変革が訪れる。
カルビン・ルターによる宗教改革である。
 
1400-1500年代に起こるこの活動によって、プロテスタントという集団がうまれ、
彼らは「偶像崇拝の禁止」という教義において教会美術を破壊していくこととなる。
 
教会に仕える工芸史や芸術家は職を失い、また、生活に困窮することになる。
そこで生まれたのが、大衆・民衆に描かれた絵画や建築なのである。
 

「牛乳を注ぐ女」(フィルメール
この絵は、まさに教会からの仕事にあぶれたフィルメールに対して、パン屋が2年間の食事であるパンを提供することで描かれたという絵なのである。
 
 
「夜警」(レンブラント
20名近くの村人たちが自分たちの活動を残すために、今でいうクラウドファンディングのようにお金を出し合って描かせた。
 
ここではじめて、美術品は不動産から動産になるのである。
 
当時最も丈夫だった船の帆をキャンバスとした絵画は、時を経てそれからの数百年も残されていくこととなる。
 
 
・ヨーロッパは宗教改革によって教会の力が削がれて、教会から日々の仕事や糧を得ていた芸術家は顧客を変えて、民衆を相手に生業を変化させた。
 
そして、次なる大きな変化が訪れる。
それは新大陸の発見以降の富の流れの変化とアメリカ国の発展である。
 
アメリカは、1800年代にイギリスからの独立を果たし、また、ヨーロッパに物を売って大いに潤った新しいお金持ちが東海岸に大量にうまれた。
この富裕層は、元来ヨーロッパからの移民であり、歴史や家柄というようなものに憧れがあった。
 
そこに目をつけて、ニューヨークで画商として、現代のアートビジネスの基礎を作った男、
アンブロワーズ・ヴォラールが登場する。
 
彼は、元々はパリの画商であったのだが、新大陸のアメリカに富裕層が増えていることを聞きつけて、ニューヨークに渡り、そこで安く大陸から仕入れてきた古い絵を、この新しい富裕層に売り始めたのだ。
 
彼は売り方や売る環境に拘った。
部屋中の家具に黄金の猫足を配して、まるで宮殿のような豪華な家具と調度品をあつらえ、大きな食卓の前に古い絵画をかけて顧客をもてなした。
 
そして、現代では名画と言われるような、ヨーロッパ各地で買い集めた古い絵を、とんでもない高額な値段で彼らニューリッチ層に売ったのである。
 

「りんごとオレンジ」(ポール・セザンヌ
 
現在もニューヨークがアートの中心地と言われる所以は、まさに、この頃からの流れがあるからである。
 
 
 
□日本の美術史
 
一方で日本はというと、それはそれでまた異なった進化とタイミングで、『美術品?』という物がうまれ、そして、ビジネスになっていくのである。
 
日本には、というか、東洋には、そもそも美術というものはかなり古くからあったようだ。
 
ただ、仏教伝来以降の仏像や寺社仏閣においての美術の方が現代でもわかりやすいだろう。
ここにおいても、芸術家の発注主は、寺社仏閣か時の権力者である。
宗教は、極端に強い権力や財力を持つことで、結果的に芸術や美術を保護し発展することになる。
 
日本では応仁の乱(1467年)以降になると各地域に豪族や権力者が分散しており、
戦国時代を経て、江戸時代は日本の国土の中に80数国の独立した文化と藩という集合体での文化が発展することとなる。
 
特に、国内が平和で秩序の取れた律令制度の中においては、芸術は大いに発展した。
各藩は、それぞれの領内の技術者(その当時の画家や芸術家、刀剣師など)を雇って、それぞれの技術や技法で覇を争った。
 
そして、明治維新に繋がるタイミングで一気に海外と繋がっていくのである
 
 
このきっかけになったのが、パリ万博(1867年)であった。
 
この際に日本が当時、輸出品として売れた物が、工芸品であったのだ。
特に、パリ万博ではフランスが農業国から工芸や工業立国への発展を希望したことから世界中から、さまざまな技術、特に工芸品を集めることが目的であった。
 
日本では、工芸のレベルが世界中で最も優れたレベルに達していたのだった。
 
例えば、七宝焼という、花瓶やお皿、装飾品、ブレスレッド等につかわれる技法がある。
 

 

 
元々は紀元前のエジプトで使われていた古典的な技術であったが、それを数千年の時を経て、圧倒的なレベルで進化発展させ、ある種の完成形に近い物を生み出した。
 
当初は焼き物の技術や金属の加工技術など、その手法が原始的なために抽象的な物が表現が多かったが、
日本の職人の生み出す超絶技巧と言われる作品たちは、写実的で、かつ繊細な自然から抽象的な幾何学模様まで、さまざまな図案と構図で七宝焼がつくられた。
生み出された銘品達は世界中で評価され、高値で売り買いされる様になった。
 
工芸品によって外貨を得た日本は、日本国内の工業化や近代化を推進させ、
富国強兵につながる軍備の増強をはかり、アジア一の強国へと発展した。
 
 
しかし、結果的には民芸や工芸は廃れることになる。
 
 
その流れを決定つけるのは、第二次世界大戦後、朝鮮戦争時の1950年ごろ、
連合国に蹂躙されて完全に敗北した日本は、
ものづくり大国としての手作業による工芸や民芸の技や技術を捨ててしまった。
 
大量生産大量消費の時代の旗手として世界で最も素早く工業国家化していき、
元々の匠や職人として働いていた人たちやその予備軍だった若者たちは
工場などの工員やその頃から増え始めた会社勤めのサラリーマン、終身雇用という体裁の企業への雇用に急速に姿を変えていった。
そうして日本国経済は躍進していった。
 
大規模な工場と大きな企業が経済のコアとして推進する社会形態に急速に変化していくのだった。
 
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高度経済成長期の日本は、世界に人々の仕事観やハタラク形式や体制を伝えながら急激に変化しジャパンアズナンバーワン(日本が世界一)と言われるほどの大国へのし上がった。
 
そして、その大量生産大量消費の時代を牽引して、21世紀を迎えて徐々に膨らんできた環境問題や人々の生き方や暮らし方の変化により、
人々の生き方が大きく変わろうとしているのが今日現在の社会なのです。
 
 
未来の話はまた別の機会に譲りますが、
この社会、人類の未来、そして、地球での我々人類の学びと進化は、そう遠くない時代になると感じています。
 
さぁ、人類の未来へ。
 
アートを通じてひとつ覗いて見ませんか?