54ブログ

ビジネスモデルまにあ

今までの新卒就職とか転職で【入社する方法】って変じゃないですか???

地味に、ずっと違和感があって、みんな平気な顔してるのが、

すごく不思議なことがったので、ちょっとブログに書いてみます。

 

私は、新卒では2007年からインターンからクックパッド社に入社しました。

転職は、一度だけで、2012年にランサーズ社に転職しました。

その後、2015年に54社を自分だけで起業してた後に、

2017年には一緒にプロトスター社を二次創業的な感じでやったりしました。

 

自分の仕事キャリア的には、どういう人と働くか、どういう会社で働くか、

どういう業務内容かを理解した上で入社というか、一緒に働くを決めていました。

 

でも、今、まわりの方々の転職活動とか、実際に役員で稼働してる会社で

人材採用をしてみて感じるのは、この転職という大きなキャリアの節目なのに

事前に会社と個人、業務と担当者、先輩と後輩みたいな接点の擦り合わせが

事前にほぼ無くて転職したり、職業チェンジしてるってことに気づいたからです。

 

私は、ある程度納得しないと就職したり、一緒に働いたり出来ない感じだったので、

このいきなり転職する、いきなり同僚になる、みたいな感覚が

今の日本社会では当たり前というのが、すごく違和感があります。

 

だって、一緒に働いていく仲間ですよね?

同じ船に乗るメンバーですよね??

それを数回の面接と食事会程度のことで合否の判断できるんですか???

面談での質問内容で、その人の何が分かるというのですか???

合うね、この人!みたいなことが見抜けるほど、人のこと分かるんですか???

 

ものすごく不思議。

 

あとは、面接官というか、会社側が有利という感じなのも、とっても不思議ですよね。

 

会社に入社する、入社してくれるわけであって、入社する方は劣後するなんてなくて、

対等というか、何なら会社側はもっと感謝して良いのにって思うのであって。

 

私自身は、クックパッドインターンで、3ヶ月一緒に働く中で、

佐野さんや森下さん、小竹さんなどの濃い面々との仕事が楽しかったし、

会社も成長させれるなという感覚があったのでジョインしました。

ランサーズも、秋好兄弟と共に、とにかく何でもやる!という姿勢で1年目は

死に物狂いで色々やって(オフィス引越しから、広報、営業、総務、雑務何でも)、

その中で会社にもメンバーにも馴染んで行ったし。

そうやって、ある意味ではアイドリングタイムなり、お互いに判断する期間とか

プロジェクトがあって、両思いで一緒に仕事をしてきた感覚があります。

 

でも、今って面接がまずあって、履歴書とか面談でOK、NGみたいな、

そんな数回あっただけでその人が会社に合う、合わないなんて言えるほど、

そんな超能力みたいなチカラが各企業の人事や担当役員にあるんですか?!!

 

それってすごいなー、と。

単純に、それってすげー能力者だな、、、、と。

 

 

 

なので、私は、LITEVIEW社では社会人インターンというやり方で、

まずは副業的に一緒にプロジェクト単位でやってみてもらって

双方に会社を知ってもらう、その方を知り合うということをして

その上で、双方に合意であれば、もっとコミットを増やしてもらう、

それは手段としては転職でも良いし、もしかしたら、ご本人の意向で

フリーランスになられて、その人への外注でも良いのかも知れないし。

 

そういう有機的な人と人との繋がりの方が信じられるというか、良いなって。

個人的には思ったりします。

 

甘いのかもしれないけども、

えいや!で転職したり、えいや!!で新卒の企業を決めるっていう

博打みたいな仕事選びや仕事選択って、20世紀で終わって良いよなと。

 

双方に仕事やプロジェクトを通じて知り合って、

良かったら転職だし、違かったら別のところで活躍!みたいな方が

個人にとっても、企業側にとっても、結局は両方に良いのに、と私は思うのでした。

 

そんな私が思う、既存のやり方に対しての改善案は、

学生向けはもちろん、社会人の方に向けての企業が提供するインターンです。

 

インターンは、アルバイトの方のようなルーティン業務ではなく、

色々なプロジェクトにおける需要な役割やタスクをこなし、また、

チャレンジをするプロセスを通じて社内のメンバーの方々とも親しくなれる。

結果としては、会社のことも、提供サービスのことも、転職した後の

具体的に活躍できるイメージまでももてるのではないかな、と思うのです。

 

 

その為には、今日現在はまだコロナ禍でもあり、日本中を行き来して会える状況にないですが、

いつかは、イベントをやりたいぞ!と思っております。

 

その名も、

『ドリポニに乗って! 〜ベンチャーインターン投票イベント〜 』

です。

 

 

 

素敵なドラマに触発されつつ、やっぱり、ベンチャーが盛り上がってほしいし、

自分ももっと若手に可能性やチャンスを提供したいし!!

と思う想いから、こんなことを仕掛けます。

 

詳しくは、また、発信していきますが、

とりあえず、興味がある会社さんはお問合せくださいませ!

初回は、多分、10月3日週あたりにやると思います!

 

 

詳しくは、twitterfacebookをご確認ください。

 

 

新入社員(新社会人)は、コレだけは出来て欲しい4つのこと。

タイトルがハック記事っぽくて、実際の内容がそうじゃないから恥ずかしいのですがw

新社会人のイラスト!

 

そもそも、社会人のあるべき姿は、どういう状態なのだろうか?

 

 

あるべき姿とは、所属する会社のメンバーとして

取引先の担当者や社外の方々とのコミュニケーションを円滑に取れること。

失礼のないように振る舞えること、が最低限に求められることだと思う。

 

そのため、まずやるべきことは、

【コミュニケーションを社会人として違和感のない対応をすること】である。

 

私自身の話をすると、私は元々はインターネット広告業界から社会人を始めた。

そういう意味では、最もスピーディで変化に富む、騒がしい業界だった。

 

そして、自分達自身もコミュニケーション量が多く、

また、1日でやりとりするメールの件数が数百件というのもザラで、

メーラーを3−5分おきにリフレッシュして、受け取ったメールを即時に捌くという日常を

営業時間9-18時内だけにとどまらず、

8-22時まで連絡を捌き、資料を作成して提出する、という生活を送っていた。

(2006-2014年くらいのサラリーマン時代)

 

これは極端な状態であり、業界的に2000年代半ばはある意味で、

急拡大するインターネット広告市場は他に類をみない

業界全体が不夜城的な業界であったので、他の人に強要するには過度であろう。

さて、新卒そこそこでそんな状態であったからこそ、私自身は、

ビジネスにおいてのスキルを半年程度でバリバリに身につけることができた。

 

 

 

余談に逸れてしまったので、本文に戻そう。

 

恋愛も、友人関係も、もちろん、仕事も、

人と人との間柄における関係を良好に保つ。

また、一緒に何かをやる(仕事だけでなく遊びでも)という時に

最低限のマナーやルールはあるものです。

 

 

例えば、以下のようなことしてて、取引先と良い関係が作れるでしょうか?

・名刺交換をして、その後お礼のメールもしない。

・こちらから依頼してアポイントをお願いしてるのに、候補日程を相手に求める。

・電話をかけても折り返しがない。

・メッセージを既読スルーする。

・平日昼間の営業時間内で3−4時間、連絡を断つ。

 

コレは極端でしょw と思うかもしれませんが、実際に起こってることです。(実話)

 

 

幼稚園の先生の言葉は、大人になった皆さんにこそ重要です。

これが本ブログのタイトルの4つです。

 

①相手にあったら挨拶をしましょう!

②ミスをしたり相手に迷惑をかけたら、ちゃんと謝りましょう!

③親切にされたら、感謝の気持ちを伝えましょう(ありがとうと言いましょう!)

④困ったらすぐに先生に言いましょう!

 

めちゃくちゃ基本的な人間として当たり前のことです。

この4つのことが実は、、、残念ながら大人の人でもできない人もいるのです。

そして、逆にこれをするだけで、社会人で言われる、

報連相(ホウ/レン/ソウ)は既にできてしまうわけです。

ホウレンソウとは報告、連絡、相談の3つの言葉の造語ですね。

 

そして、さらに追加するのであれば、

相手に対しての配慮として連絡の返信のスピードは意識しましょう。

 

24時間以内にメールも電話も、書類以外は回答するように。

書類は、ちょっとそれなりの準備がありますし、

メールでの依頼事項も即答が難しい場合は、メールが届いた旨と

いつ頃に回答しますということを伝えるメール返信をまずしましょう!

 

【コミュニケーションを社会人として違和感のないレベルにすること】

そのためには、以下の連絡手段における問題をなくすことから始めてみましょう。

A 電話対応

B eメール対応

C チャット対応

D 書類対応

 

では、それぞれを補足しましょう。

Aは、このIT化のど真ん中で軽視されますが、地味に大事です。

話し言葉で相手のテンションや意向が聞き取れるわけですね。

情報量としては、それほど多くないですが、その言語化されてない

相手の想い、雰囲気や背景の状況を理解するのに良い手段です。

折り返しは出来るだけ早くしましょう!

1日以上の放置は絶対禁止です、24時間以内に折り返し電話か、メールでの連絡は必須です。

 

Bは、現状圧倒的にビジネスにおいての主流のルーツでしょう。

ある程度の裁量権のあるビジネスマンは、1日に受け取るメールの件数が、1000件なんてのもザラで、

今は、このメール総量はどんどんとまだ増え続けていることでしょう。

返信に時間がかかるもの、準備がいるものがあるので、まずは、メールが届いていることを伝える返信をしつつ、

ちゃんとやりとりをしていきましょう!

メール返信は、12時間以内の返信がオススメです。1日の勤務時間の前に前日の夜のメール等を処理し、

また、午後の外出等の後に、夕方にまとめて返信する。1日2回にメール処理の時間を30分程度摂ることで抜け漏れを無くします。Gmail等のハック方法もあり、メールはやはり今でも最も重要な手段ではないかなと思います。

 

Cは、この5−10年で定着してきましたね。

チャットワーク、Slack、他にもサイボウズMicrosoftなどさまざまなツールでチャットがありますね。

社内やすでに動いているプロジェクトのメンバーでのやりとりに有効です。

コレは、既読したことを書き手に伝えることも大事で、スタンプやいいね!など、多用することになります。

私は移動中でも30分に1回は確認して、状況を見ています。

これ、スレッドがどんどんと更新されていくので、その話題で自分がどういう意見があるか、

または、みんなの相違点があれば、それを解消するというファシリテーターが必要になります。

このあたりはベンチャーやIT系のコミュニケーションはどんどんと早くなっていると思います。

 

Dは、現在でも、紙でのやりとりはまだまだ多いです。

特に経営に近い方々は法務契約書、銀行・公的機関などとのやりとりなど、

本当に多くのことがまだまだ紙処理が必要です。

当然、すぐに処理できることばかりではないため、管理部門の方々が日夜対応してくれていて、感謝ですね。

 

 

若いうちは、経験が乏しい。

そのため、私は【自分宛に来たメールの八割以上を30秒以内に返信する】なんて

独自ルールを自分に課して、レスポンスが圧倒的に早いヤツとして

社外の方々に認知されることを目指して行動していました。

最近は、そういうレスがはやい若手はあまりいないですが(笑)

 

そういうことをしてでも、自分の存在や特徴、自分達の会社やサービスを

相手側に何かしらの印象を持ってもらうことから、仕事のチャンスが広がります。

何も無しに、会社やサービスが知ってもらえるなんて、あり得ませんよね。

そのさきで、自分を知ってもらい、自社に対して好意的な認識を持ってもらう。

そのような差が得られれば、結局、自社の競争優位性が高まって仕事は

円滑に進むようになります。そういう社員がいる会社は栄えますよね。

 

新社会人、そして、コレから働く方々には、仕事をもっと楽しいでほしい!

そして、レス早を競うwとか、そういう自分との約束やルールを作ることで

自分の仕事に誇りを持ってやってもらうことで仕事はどんどんと楽しいものになると思います。

 

 

それでは、このレンガ積み職人の話で最後に締めくくりたいと思います。

mainichi.jp

 

新人研修の定番スピーチ

 「3人のレンガ職人」のストーリーとは、おおよそ次のような内容だ。

 

 旅人が、建築現場でレンガを積んでいる職人に「何をしているのか」と聞く。

 1人目<見れば分かるだろう。仕方なくレンガを積んでいる>

 2人目<家族を養うために、レンガ積みの仕事をしている>

 3人目<歴史に残る大聖堂をつくっている>

 

 1人目は単純作業として、2人目は生活のため、3人目は、後世の人々の心のよりどころとなる大聖堂を建てようとレンガを積む。同じ作業をしていても、何を目的とするかによって、感じ方は違ってくる。同じ働くなら、夢を持って働く「3人目の職人」でありたいとの訓話だ。

 

 

 

あなたは、どんな気持ちで今日の仕事を行いますか?

 

 

チャオ!

 

追記記事:

share.liteview.jp

 

後四日! 雑誌『THE RACE』の紙での販売が終了します

雑誌のカバーと表紙のイメージ


なぜ、紙の出版物にこだわるのか?

 

 

 

私は、紙の本が好きである。

 

 

何故か?

 

本には、その実物の本自体の歴史やストーリーがある。

同じ本であっても、誰が所有し、どう流通して、今はどこの誰の手元にあるのか、という

色々と思いを馳せることができる。芸術作品に近いものが、紙の書籍にはある。

ちょっとした書き込み、折れたページや付箋、背表紙の汚れの一つ一つが

時とともにオリジナルのものに昇華していくのだ。

 

 

 

そして、紙の雑誌は、ゆうに1000年以上、物理的に残るのだ。

 

 

さて、今回は、雑誌創刊にあたってのブログである。

 

【THE RACE】という今回制作している雑誌を創刊するのだが、

別にいきなり紙の雑誌を創る!というわけではないのだ。

https://camp-fire.jp/projects/view/579707

camp-fire.jp

 

これまでに七冊以上に書籍出版に関わり、

WEBメディア等も入れれば媒体の立ち上げはかなりの数に私自身は関わってきた。

 

 

ゴーストライターをしたり、企画編集をしたり、

広告営業をしたり、クラファンをしてみたりと

ありとあらゆる取り組みから

本を創ること、本を流通させることをチャレンジしてきた。

 

まず、最初に出版をマーケティング的に使って出版したのが、

前職時代につくったこの書籍である。

帯へのコメントの依頼も含めて、色々と動いてやりきった。

 

●満員電車にサヨナラする方法(2013年)

 

 

その後、ランサーズ社にて、クラファンでお金を集めて

自費出版本をつくることになる。

フリーランスの方々の働き方、暮らし方を紹介する本の誕生である。

 

●時間と場所にとらわれない働き方(2014年)

 

この本は、口頭筆記という方法で私が口述した内容を

ランターの方が文章にしていただき、書籍化してもらったもので、

著者名として代表の名で出ているのも、

会社のPRとして戦略的につくった書籍だからなのである。

とわいえ、今読んでも全く古くないし、何せ、コロナ禍のリモートワーク時代を

6-8年も前に実践してたというのがセンス良いよね、と自画自賛w

 

0 to 100 会社を育てる戦略地図(2017年)

 

商業出版ということで、ポプラ社の編集のAさんに

大変お世話になった一冊。

実は2015年にキックオフしてから、4回ほど丸ごと書き換えて、、、

私が最初に書いた内容が一般的に難しすぎるということでボツに、

ライターの人に口頭筆記してもらったが途中でそのランターさんが投げ出しボツに、

改めて自分で書き直してみたが、、、一般的な人の表現、言葉で書くのは難しくて、、、

再度、出版社の方にライターの方を新たに紹介していただき、

既存のボツ内容を統合してもらい、また、口頭筆記もしつつ、

四度目の正直で完成した、約2年半の歳月をかけて出来た素晴らしい書籍です。

ベンチャーやる人、ベンチャーで働く人は必読書ですよ!(真剣)

 

https://amzn.to/3SfEC9c

 

●逆境のビジネス略歴~山口豪志編⓪~ (2019年)

 

この二冊は、2019年に35歳になったことを記念して、

今までの自分の半生をまとめて書いた本でして

本当に濃い人生だった、、、なと改めて自分で見ても面白い内容です。(苦笑)

 

 

●Jumpstart Japan(2019年)

https://issuu.com/jumpstartmagazine/docs/jumpstart_japan

 

これからはアジアの時代!ベンチャーはアジアを巻き込んでさらに大きく!

という意志と勢いで作ったベンチャーフリーペーパー!

広告主も多様で、結構話題になり、TSUTAYAでも扱ってもらうほどになりました!

香港法人をつくって代表になって、商売していくぞ!というタイミングで、香港デモ、終わりました。

 

就職活動から卒業する方法: 〜ビジネスモデルを知って人生の地図を手に入れよう〜(2021年)

 

学生の方々と4年くらい揉んできて、口頭筆記したり、

学生の疑問に答える形式で作った書籍。

すごく良い内容だと思うので社会人0年生(就活生)は是非ご一読を!

 

 

これ以外にも、書籍制作やWEBメディア創刊やら相当の数のメディアをつくってきて、

満を持して、人生の全てを投入して作りだすメディアが、『THE RACE』なのです。

WEBメディアもあります。

https://therace.jp/

 

まだまだ、あと1週間、紙で雑誌を手に入れるチャンスがあります。

紙媒体は、保存性が良いのです、100年なんて当然残ります。

数百年でも残せますよね、すごいですよ、紙は!

 

泣いても笑っても、この期間を過ぎると、紙の雑誌は永久に手に入れられませんよ。

是非とも、買い忘れなきように。

 

camp-fire.jp

 

 

チャオ!

『工芸』と『工業』との歴史とその違いを語ろう 〜美術史と経済史の交差点〜

2022年は、変革の年である。
 
地球環境、人間社会、疫病含む生物の変化・進化、さまざまな当たり前が崩壊して再構築されている。
新しい秩序であり、価値創造が必要なる時期という事だろう。
 
さて、我々の人類史において、美術という付加価値についての話を別のブログで書いた。
大枠の歴史のおさらいにコレを読んでもらった上で今回の工芸と工業の話をしたい。
 
そもそも元来の“ものづくり”とは、人の手によって生み出される行為だった。
製手と言えば分かり良いが、元来の物作りの全ては、人の手によって作られて物は生み出されていた。 もちろん全ての工程が人手という訳ではない。
古代の鏃や木製の道具などは素材と手作業にて生み出されるものだが、土器や焼き物などは火の力を借りて成形したり、水分を抜いて焼きつよくしたものだったりする。
 
動物的な人間からの進化の過程で、人は火の力を利用するようになり、その過程でのものづくりも変わる。
種や植物、また、動物も飼い慣らしたり蚕のような昆虫を自分達の都合の良いように進化変化させることも人類の生み出したことには違いない。
人は確実に周りのものに作用をして、付加価値を生み出している。
それが急加速してより強い外部のエネルギー(ここでいう外部というのは人体の外のものを利用して生み出させたエネルギーを利用して、素材を再組成したり、加工する事をいう)の利用が促進された。
産業革命以降はその流れがより顕著で、蒸気のチカラ、その後の電力や科学的なエネルギーの利用により、人の手以外でのものづくりが実現した。
同じ様な物、例えば食器やハサミの様な道具も同じカタチ、同じサイズに作った方がみんなが同様に使えて都合が良い。
そういう同じ形、同じ大きさ、同じ質量で同じ素材のものを生み出すことが、現代では当たり前に出来ることだ。
それこそ、工業製品と言われる、鋳造の技術によってプラスチックや金属などを再形成して、同じカタチのものを大量に生産することが可能になる。
製造工程においては人手はほぼかからず、機械を作り出し、その機械を動かせば、そのハサミや食器などが正確に同じ様に作り続けることが出来る。
コレが1800年代に起こった人類の進化の飛躍のきっかけだ。
それまでは全てが手作りの為、一つ一つが誤差の様な違いがあった。
同じ様な食器、同じ様なハサミを作っても、少しづつクセや違いがあった。
これこそ工芸品に代表されるような、ほぼ均一ながらもそれぞれが個性のような風合いがある民芸品の様なアイテムなのだ。
この大きな流れの源流はもちろんイギリスの産業革命なのだが、それをさらに加速させたのはやはりアメリカだろう。
1500年代ごろにアメリカ大陸を発見し、アメリカ大陸に移民した者達が、徐々にアメリカ大陸を制して開発し、ドンドンと豊かになって独立を果たす。(1775年頃)
その後国内での内乱が起こり南の奴隷推進派と、北の奴隷解放派との対立によるアメリ南北戦争の際に、工芸と工業の代理戦争的な事象が発生する。(1860年頃)
 
結論から言うと北側が勝ち、南側が負ける。
 
何が大きく違ったかと言うと、それは鉄砲のモノづくりが根本的に異なるのだ。
分かりやすくいうと、農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と、原料供給地としての農業経済を継続したい南部では、全く思想が異なった。
 
奴隷制を否定する北部 vs. 奴隷制を肯定する南部
※北部は、工業化されていたため、奴隷が不必要になっており、農業や原料供給する南部は引き続き、人手が必要だったから。
 
工業製品化した鉄砲をつくる北軍は、鉄砲の一部が故障してもその故障パーツを入れ替えて修理すれば、すぐに直せて再度使えるのである。
それに対して工業化の遅れた南軍の鉄砲は壊れたら、個々に修理が難しく、直すのに熟練の修理工員が必要となる。
北軍が、機械化して人手を減らしたものづくりをしたのに対して、南軍は、奴隷を投入して多くを手作りで賄った。
この差によってこの戦は工業化した北軍の勝利に終わり、奴隷社会は終わりを告げる。
 
この工芸と工業の対立は、今もあちこちで見られる。
同時期の日本でも明治新政府(1868年)になり、西欧列強に並ぼうと努力した時代。
日本では、それまでにほぼ全てのものづくりは、人手でおこなっていた(一部は馬耕などの動物の利用はあったが)。
その中で西欧列強は工業化を果たしており、イギリス、フランス、アメリカなど、工業化した国々は圧倒的な軍備と共に壊れてもすぐに修理できる体制があり、同じような物資を供給できる体制を整えていた。 それによってアジアはもちろんのこと、アフリカや南米を勢力下に収め、近代化であり軍国主義の勢いのままに世界を欧米列強が支配していた。
その中で日本国は、工芸の技術力の高さで世界を驚かせる技を見せつけ、優れたデザイン性により欧州からの評価を高めて工芸品を各国に販売して輸出し、外貨を得て国力を高めて財を築き、結局、明治時代には開国後30−40年で当時の世界最強国の一つであるロシアとの日露戦争を勝利するのである。
工芸品を海外に売り、工業化を国全体として推進していくなかで、明治新政府に与した地域から順に工業化を果たしていき、工業製品を国内に供給して急速に物質的な豊かさを手に入れて欧米列強に並びにいったのである。
 
ここで余談だが、なぜ日本国内には、県名と県庁所在地の名称が異なる地域があるのかご存知だろうか?
このルールを決めた人物こそがヒントであり、彼の人物感を窺われるエピソードでもある。
 
 
彼は、旧幕府側に付いた藩を明治新政府後に明確に区別する為に、藩名を県庁所在地として残し、県名を中央からつけて、中央からのコントロールとして県名の下に県庁所在地名をおいたのである。
なかなかにいやらしい戦略であるが、お陰で今も、明治新政府側についた高知県高知市、鹿児島県鹿児島市などの様な同一名の県名と県庁所在地に対して、石川県金沢市香川県高松市、愛知県名古屋市のような異なる県名と県庁所在地がある状況が生まれたのだ。
『日本国は今もなお薩長土肥国(明治新政府)である』と言う私の持論があるが、長州藩である山口県からは最も多くの総理大臣が誕生しているし、九州・四国・中国・関西側の方が政治ではチカラを持っているのも、まぁ、様々な意味がある。
 
すっかり話が逸れてしまったが、要は工芸のチカラを残した地域は旧幕府側の勢力であり、彼らは意図的に工業化を遅らされたことにより、2022年の現代でも職人のコミュニティであり、製手的な技が残っている。
他の地域は明治期に一気に工業化が進み、手仕事を捨ててしまった地域が多い。
この工芸を手放した地域は、工業化してしまったがゆえに、その地域固有の強みや特徴を失い、人口流出や地域経済を守っていくチカラは失われている。
石川県、愛知県、香川県のような地域は漆製品の有名な産地であり、また、七宝焼、陶芸、などさまざまな手仕事である工芸を遺している。
 
明治時代の七宝焼 これはこれからの世界的な人口増加社会において、とても価値が高いと私は思っている。

明治時代の七宝焼(約12cm)
人は工業化した物に囲まれる暮らしよりも、人の意志や意図、想いを込められた物に囲まれて暮らすことを好むのではないかと思っている。
アート、美術、人の心を動かす物は、そういう物ではないかと。
 
かなり飛行機内での時間があったので、ダラダラと長文になってしまったが、工芸であり、手仕事であり、アートはこれから間違いなく成長産業になると私は確信している。
 
その一助に私の人生がなるのであれば、これ幸いに思う。
 
チャオ

美術史観 山口豪志の場合

2022年、人々はまだ、自らがどの様にありたいか、どの様にあるべきかを自問自答し、迷いの中にある。
 
ただ、その答えは人類史の中にこそある、と私は考えている。
 
 
 
今回は美術の歴史を、アートビジネスの切り口で振り返りたい。
 
 
ギリシャ古代文明のような時代からも確実に、美術は存在していただろう。
だが、美術や芸術より先に、別の存在があったのではないか、と思う。
 
 
人類は狩猟採集時代から農耕社会へ変化していく。
農耕社会においては、天候や自然に環境が影響されることがある。
人間では制することのできない自然の特別な力に、
我々の人類の祖先は神のようなもの(=未知なる存在)を概念として生み出し、
それを認識して集団社会としてのまとまりを形成するべく、宗教の原型が生まれた。
 
古代から続く人類社会で最も多くの人々を従えていたローマ帝国では紀元後392年に、キリスト教を思想の中心に据えて、人々を治めていた。
 
そのキリストの経典である、【聖書】に記載された神の奇跡を再現する為に、実験と研究が進められたことの蓄積が、現在の【科学】のはじまりである。
 
一方で、美術・芸術は、キリストの奇跡を具現化して示し、言語が異なり、また、生活習慣の違う人々に間でも畏敬の念を抱かせるために始まった。
キリスト教の力や凄さを伝えるために、建築技術が発展した。
当初は石を基礎に造られた教会、その教会に置かれる祭壇や宗教儀式において使われる神具に金属や鉱物、宝石を活用したのだ。
 
 
・人類の集団生活をまとめるべく、宗教が生まれ、その神の力をもって、人は科学と芸術・美術を発展させてきたのだ。
 
 
その後の3つの変化はとても興味深い。
 
いわゆる世界史的なアート業界の勃興と、日本史的な美術業界の勃興をそれぞれの背景の年代とともに伝えていきたい。
 
 
□世界史的なアート産業の勃興
 
キリスト教の発展によって、ヨーロッパ世界はほぼ共通の価値観を持ち、
教会が各村や町に置かれ、その町の中で、教会に関わる大工、工芸師、芸術家が生まれた。
その数は、村人20人のうち1人以上というから、かなりの数の人が今でいうところの教会勤務をしていたことになるのだろう。
 
この時点での美術は大半が教会自体の装飾品と建築であり、それはつまり、不動産なのである。
 
しかし、キリスト教史において、大きな変革が訪れる。
カルビン・ルターによる宗教改革である。
 
1400-1500年代に起こるこの活動によって、プロテスタントという集団がうまれ、
彼らは「偶像崇拝の禁止」という教義において教会美術を破壊していくこととなる。
 
教会に仕える工芸史や芸術家は職を失い、また、生活に困窮することになる。
そこで生まれたのが、大衆・民衆に描かれた絵画や建築なのである。
 

「牛乳を注ぐ女」(フィルメール
この絵は、まさに教会からの仕事にあぶれたフィルメールに対して、パン屋が2年間の食事であるパンを提供することで描かれたという絵なのである。
 
 
「夜警」(レンブラント
20名近くの村人たちが自分たちの活動を残すために、今でいうクラウドファンディングのようにお金を出し合って描かせた。
 
ここではじめて、美術品は不動産から動産になるのである。
 
当時最も丈夫だった船の帆をキャンバスとした絵画は、時を経てそれからの数百年も残されていくこととなる。
 
 
・ヨーロッパは宗教改革によって教会の力が削がれて、教会から日々の仕事や糧を得ていた芸術家は顧客を変えて、民衆を相手に生業を変化させた。
 
そして、次なる大きな変化が訪れる。
それは新大陸の発見以降の富の流れの変化とアメリカ国の発展である。
 
アメリカは、1800年代にイギリスからの独立を果たし、また、ヨーロッパに物を売って大いに潤った新しいお金持ちが東海岸に大量にうまれた。
この富裕層は、元来ヨーロッパからの移民であり、歴史や家柄というようなものに憧れがあった。
 
そこに目をつけて、ニューヨークで画商として、現代のアートビジネスの基礎を作った男、
アンブロワーズ・ヴォラールが登場する。
 
彼は、元々はパリの画商であったのだが、新大陸のアメリカに富裕層が増えていることを聞きつけて、ニューヨークに渡り、そこで安く大陸から仕入れてきた古い絵を、この新しい富裕層に売り始めたのだ。
 
彼は売り方や売る環境に拘った。
部屋中の家具に黄金の猫足を配して、まるで宮殿のような豪華な家具と調度品をあつらえ、大きな食卓の前に古い絵画をかけて顧客をもてなした。
 
そして、現代では名画と言われるような、ヨーロッパ各地で買い集めた古い絵を、とんでもない高額な値段で彼らニューリッチ層に売ったのである。
 

「りんごとオレンジ」(ポール・セザンヌ
 
現在もニューヨークがアートの中心地と言われる所以は、まさに、この頃からの流れがあるからである。
 
 
 
□日本の美術史
 
一方で日本はというと、それはそれでまた異なった進化とタイミングで、『美術品?』という物がうまれ、そして、ビジネスになっていくのである。
 
日本には、というか、東洋には、そもそも美術というものはかなり古くからあったようだ。
 
ただ、仏教伝来以降の仏像や寺社仏閣においての美術の方が現代でもわかりやすいだろう。
ここにおいても、芸術家の発注主は、寺社仏閣か時の権力者である。
宗教は、極端に強い権力や財力を持つことで、結果的に芸術や美術を保護し発展することになる。
 
日本では応仁の乱(1467年)以降になると各地域に豪族や権力者が分散しており、
戦国時代を経て、江戸時代は日本の国土の中に80数国の独立した文化と藩という集合体での文化が発展することとなる。
 
特に、国内が平和で秩序の取れた律令制度の中においては、芸術は大いに発展した。
各藩は、それぞれの領内の技術者(その当時の画家や芸術家、刀剣師など)を雇って、それぞれの技術や技法で覇を争った。
 
そして、明治維新に繋がるタイミングで一気に海外と繋がっていくのである
 
 
このきっかけになったのが、パリ万博(1867年)であった。
 
この際に日本が当時、輸出品として売れた物が、工芸品であったのだ。
特に、パリ万博ではフランスが農業国から工芸や工業立国への発展を希望したことから世界中から、さまざまな技術、特に工芸品を集めることが目的であった。
 
日本では、工芸のレベルが世界中で最も優れたレベルに達していたのだった。
 
例えば、七宝焼という、花瓶やお皿、装飾品、ブレスレッド等につかわれる技法がある。
 

 

 
元々は紀元前のエジプトで使われていた古典的な技術であったが、それを数千年の時を経て、圧倒的なレベルで進化発展させ、ある種の完成形に近い物を生み出した。
 
当初は焼き物の技術や金属の加工技術など、その手法が原始的なために抽象的な物が表現が多かったが、
日本の職人の生み出す超絶技巧と言われる作品たちは、写実的で、かつ繊細な自然から抽象的な幾何学模様まで、さまざまな図案と構図で七宝焼がつくられた。
生み出された銘品達は世界中で評価され、高値で売り買いされる様になった。
 
工芸品によって外貨を得た日本は、日本国内の工業化や近代化を推進させ、
富国強兵につながる軍備の増強をはかり、アジア一の強国へと発展した。
 
 
しかし、結果的には民芸や工芸は廃れることになる。
 
 
その流れを決定つけるのは、第二次世界大戦後、朝鮮戦争時の1950年ごろ、
連合国に蹂躙されて完全に敗北した日本は、
ものづくり大国としての手作業による工芸や民芸の技や技術を捨ててしまった。
 
大量生産大量消費の時代の旗手として世界で最も素早く工業国家化していき、
元々の匠や職人として働いていた人たちやその予備軍だった若者たちは
工場などの工員やその頃から増え始めた会社勤めのサラリーマン、終身雇用という体裁の企業への雇用に急速に姿を変えていった。
そうして日本国経済は躍進していった。
 
大規模な工場と大きな企業が経済のコアとして推進する社会形態に急速に変化していくのだった。
 
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高度経済成長期の日本は、世界に人々の仕事観やハタラク形式や体制を伝えながら急激に変化しジャパンアズナンバーワン(日本が世界一)と言われるほどの大国へのし上がった。
 
そして、その大量生産大量消費の時代を牽引して、21世紀を迎えて徐々に膨らんできた環境問題や人々の生き方や暮らし方の変化により、
人々の生き方が大きく変わろうとしているのが今日現在の社会なのです。
 
 
未来の話はまた別の機会に譲りますが、
この社会、人類の未来、そして、地球での我々人類の学びと進化は、そう遠くない時代になると感じています。
 
さぁ、人類の未来へ。
 
アートを通じてひとつ覗いて見ませんか?

4年ぶりの、問いかけに対する解としての行動(クラウドファンディング)について

今回の、クラウドファンディングのプロジェクトは、
実はこの2018年のインタビューで受け答えしている解なのである。
 
 
このインタビューから、すっかり時間が経ってしまった。
 
2018年のこのインタビューの内容、300年後の人類を想う、と言った私の言動の回答として、
それを実際にカタチにすることが、ようやく4年以上の歳月を経て実行できました。
それが、今回の人類へ気ヅキの刺ゲキを与える雑誌『THE RACE』の創刊です。
本当にこの4年間は、過去で最長のどん底期間(2年間の不眠症)を味わった。
 
天国と地獄。
 
いろんな寄り道、周り道、挫折、絶望、苦悩、喜び、友愛、徒労、さまざまな感情が去来する中で、食べて排泄して、ただ生きてだけいて、なんとか生きながらえて回復して、今回のプロジェクトに取り組めています。
 
生きることを支えてくれた友人の皆さんには感謝しかありません。
 
この雑誌に携わってくれているスポンサーの広告主の起業家の友人、編集者、カメラマン、アシスタント、デザイナー、サイト製作者、クラファンの関係者、イベントサポーター、多くの方々の協力と助けがあって今、こうやって生きて行動して、ものづくりができていることに本当に嬉しいです。
 
私が創らせていただいているこの雑誌で伝えたい想い・願いが、皆さんに届く日が、ここからの100年の間にちょっとの間でもあれば、本当に嬉しいことです。
その時に私たちの想い、この雑誌を通じて感じてとって伝わって欲しい。
少しでも皆さんの行動が自分の為だけでなく、身の周りの人、住んでる地域の人、日々の生活や活動を支えてくれている海の向こうの誰か、この地球を共有する仲間達(人類)、それ人類以外のさまざまな生物たちや地球の鉱物、などなど、多くの人や生き物、モノへ想いを馳せてもらえたら、こんなに嬉しいことはありません。
 
『THE RACE』がより多くの方々に認知され、また、このコンセプトが支持くださることがあるのであれば、これほどまでに嬉しいことはありません。
是非とも、コンセプトだけでも、サイトだけでも覗いてもらえたら嬉しいです。
 
 
 
※昨日、ある友人に言われた質問。
「山口さんの一番調子が良かった時期はいつですか?」
の解として、
 
「それは2018年です!」とお答えします。
そして、「今、です!」と。
 

七周年感謝祭

株式会社54の七周年記念イベント報告

ありがとうございます。

 

今日で、株式会社54は創業してから7年と2週と3日が経ちました。

 

2015年5月1日に創業した、株式会社54は、

何とか継続することが出来て今日まで続けてくることが出来ました。

 

感謝祭でお伝えした内容を折角なので、

自身の宣言として、こちらでも示しておこうと思いまして

ブログにしたためたいと思います。

ちなみに、昨日の感謝祭で全国各地からお集まり頂いた皆様、

本当にありがとうございました!

総勢80名の方々の元気な笑顔と勇姿を見ることが出来、

今日までコロナ禍を共に生き抜いて来れたことに嬉しさと誇りを感じました。

ありがたいなーと心底感じましたし、昨日はイベント登壇にて気が張ってたから

ちょっと感受性が落ちてた感じがしますが、今朝は素直に有難さをジーンと感じています。

 

さて、発表内容というか、今回の会の目的は、

参加くださった皆さんにシンプルに感謝を伝えたいということでした。

 

発表スライド

これは五周年の際にもお伝えしたのですが、この3年間で大きくお仕事を

させていただいた方々をある法則を順に列挙させていただいております。

 

 

本当に多くの方々のお陰様で、何とかやってこれました。

コロナ禍で昨対50%減となる売上状況の中でも、ちゃんと生きてこられたのは、

上記の皆さんのご支援の賜物と思いますし、公私共に支えてくださった

起業家の方々には私の全身全霊をもって報いたいと思います。

是非とも、共に栄えましょう!!!

 

実は2013年からベンチャー投資をする個人投資家としての活動をしておりましたが、

その成果的な話はほぼしておりませんでした。

ただ、流石に9年を数える状況になりましたので、

そっとその結果を共有させていただきました。

既存の投資先は累計で37社となり、上記のイグジット先と残りの30社の

既存投資先の起業家の皆さんとともに、より社会を滑らかに

『人の為の人の世を実現し、全ての生き物に報える環境を実現したい』という

本望をシッカリと遂げて行きたいと思います。

 

さて、今後の展開として、株式会社54であり、山口豪志個人が成すべきこと、

成したいことを3つ宣言させていただきました!!!

3つのテーマとやること

上記の写真がそれです。

 

見たらわかりやすい内容ですが、詳細は、

是非とも、発表資料を全編読んでいただければと思います。

 

 

 

 

いやー、周年記念イベントは本当に楽しいし、最高のヒトトキでした。

ありがとうございます、そして、本当に今日まで生きてて良かった。

次回、十周年に参加したい!という方は、ぜひ、株式会社54とお仕事をいたしましょう^^

 

皆さんとご一緒できる日を楽しみにしております^^

 

では、また会う日まで、チャオ!