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『工芸』と『工業』との歴史とその違いを語ろう 〜美術史と経済史の交差点〜

2022年は、変革の年である。
 
地球環境、人間社会、疫病含む生物の変化・進化、さまざまな当たり前が崩壊して再構築されている。
新しい秩序であり、価値創造が必要なる時期という事だろう。
 
さて、我々の人類史において、美術という付加価値についての話を別のブログで書いた。
大枠の歴史のおさらいにコレを読んでもらった上で今回の工芸と工業の話をしたい。
 
そもそも元来の“ものづくり”とは、人の手によって生み出される行為だった。
製手と言えば分かり良いが、元来の物作りの全ては、人の手によって作られて物は生み出されていた。 もちろん全ての工程が人手という訳ではない。
古代の鏃や木製の道具などは素材と手作業にて生み出されるものだが、土器や焼き物などは火の力を借りて成形したり、水分を抜いて焼きつよくしたものだったりする。
 
動物的な人間からの進化の過程で、人は火の力を利用するようになり、その過程でのものづくりも変わる。
種や植物、また、動物も飼い慣らしたり蚕のような昆虫を自分達の都合の良いように進化変化させることも人類の生み出したことには違いない。
人は確実に周りのものに作用をして、付加価値を生み出している。
それが急加速してより強い外部のエネルギー(ここでいう外部というのは人体の外のものを利用して生み出させたエネルギーを利用して、素材を再組成したり、加工する事をいう)の利用が促進された。
産業革命以降はその流れがより顕著で、蒸気のチカラ、その後の電力や科学的なエネルギーの利用により、人の手以外でのものづくりが実現した。
同じ様な物、例えば食器やハサミの様な道具も同じカタチ、同じサイズに作った方がみんなが同様に使えて都合が良い。
そういう同じ形、同じ大きさ、同じ質量で同じ素材のものを生み出すことが、現代では当たり前に出来ることだ。
それこそ、工業製品と言われる、鋳造の技術によってプラスチックや金属などを再形成して、同じカタチのものを大量に生産することが可能になる。
製造工程においては人手はほぼかからず、機械を作り出し、その機械を動かせば、そのハサミや食器などが正確に同じ様に作り続けることが出来る。
コレが1800年代に起こった人類の進化の飛躍のきっかけだ。
それまでは全てが手作りの為、一つ一つが誤差の様な違いがあった。
同じ様な食器、同じ様なハサミを作っても、少しづつクセや違いがあった。
これこそ工芸品に代表されるような、ほぼ均一ながらもそれぞれが個性のような風合いがある民芸品の様なアイテムなのだ。
この大きな流れの源流はもちろんイギリスの産業革命なのだが、それをさらに加速させたのはやはりアメリカだろう。
1500年代ごろにアメリカ大陸を発見し、アメリカ大陸に移民した者達が、徐々にアメリカ大陸を制して開発し、ドンドンと豊かになって独立を果たす。(1775年頃)
その後国内での内乱が起こり南の奴隷推進派と、北の奴隷解放派との対立によるアメリ南北戦争の際に、工芸と工業の代理戦争的な事象が発生する。(1860年頃)
 
結論から言うと北側が勝ち、南側が負ける。
 
何が大きく違ったかと言うと、それは鉄砲のモノづくりが根本的に異なるのだ。
分かりやすくいうと、農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と、原料供給地としての農業経済を継続したい南部では、全く思想が異なった。
 
奴隷制を否定する北部 vs. 奴隷制を肯定する南部
※北部は、工業化されていたため、奴隷が不必要になっており、農業や原料供給する南部は引き続き、人手が必要だったから。
 
工業製品化した鉄砲をつくる北軍は、鉄砲の一部が故障してもその故障パーツを入れ替えて修理すれば、すぐに直せて再度使えるのである。
それに対して工業化の遅れた南軍の鉄砲は壊れたら、個々に修理が難しく、直すのに熟練の修理工員が必要となる。
北軍が、機械化して人手を減らしたものづくりをしたのに対して、南軍は、奴隷を投入して多くを手作りで賄った。
この差によってこの戦は工業化した北軍の勝利に終わり、奴隷社会は終わりを告げる。
 
この工芸と工業の対立は、今もあちこちで見られる。
同時期の日本でも明治新政府(1868年)になり、西欧列強に並ぼうと努力した時代。
日本では、それまでにほぼ全てのものづくりは、人手でおこなっていた(一部は馬耕などの動物の利用はあったが)。
その中で西欧列強は工業化を果たしており、イギリス、フランス、アメリカなど、工業化した国々は圧倒的な軍備と共に壊れてもすぐに修理できる体制があり、同じような物資を供給できる体制を整えていた。 それによってアジアはもちろんのこと、アフリカや南米を勢力下に収め、近代化であり軍国主義の勢いのままに世界を欧米列強が支配していた。
その中で日本国は、工芸の技術力の高さで世界を驚かせる技を見せつけ、優れたデザイン性により欧州からの評価を高めて工芸品を各国に販売して輸出し、外貨を得て国力を高めて財を築き、結局、明治時代には開国後30−40年で当時の世界最強国の一つであるロシアとの日露戦争を勝利するのである。
工芸品を海外に売り、工業化を国全体として推進していくなかで、明治新政府に与した地域から順に工業化を果たしていき、工業製品を国内に供給して急速に物質的な豊かさを手に入れて欧米列強に並びにいったのである。
 
ここで余談だが、なぜ日本国内には、県名と県庁所在地の名称が異なる地域があるのかご存知だろうか?
このルールを決めた人物こそがヒントであり、彼の人物感を窺われるエピソードでもある。
 
 
彼は、旧幕府側に付いた藩を明治新政府後に明確に区別する為に、藩名を県庁所在地として残し、県名を中央からつけて、中央からのコントロールとして県名の下に県庁所在地名をおいたのである。
なかなかにいやらしい戦略であるが、お陰で今も、明治新政府側についた高知県高知市、鹿児島県鹿児島市などの様な同一名の県名と県庁所在地に対して、石川県金沢市香川県高松市、愛知県名古屋市のような異なる県名と県庁所在地がある状況が生まれたのだ。
『日本国は今もなお薩長土肥国(明治新政府)である』と言う私の持論があるが、長州藩である山口県からは最も多くの総理大臣が誕生しているし、九州・四国・中国・関西側の方が政治ではチカラを持っているのも、まぁ、様々な意味がある。
 
すっかり話が逸れてしまったが、要は工芸のチカラを残した地域は旧幕府側の勢力であり、彼らは意図的に工業化を遅らされたことにより、2022年の現代でも職人のコミュニティであり、製手的な技が残っている。
他の地域は明治期に一気に工業化が進み、手仕事を捨ててしまった地域が多い。
この工芸を手放した地域は、工業化してしまったがゆえに、その地域固有の強みや特徴を失い、人口流出や地域経済を守っていくチカラは失われている。
石川県、愛知県、香川県のような地域は漆製品の有名な産地であり、また、七宝焼、陶芸、などさまざまな手仕事である工芸を遺している。
 
明治時代の七宝焼 これはこれからの世界的な人口増加社会において、とても価値が高いと私は思っている。

明治時代の七宝焼(約12cm)
人は工業化した物に囲まれる暮らしよりも、人の意志や意図、想いを込められた物に囲まれて暮らすことを好むのではないかと思っている。
アート、美術、人の心を動かす物は、そういう物ではないかと。
 
かなり飛行機内での時間があったので、ダラダラと長文になってしまったが、工芸であり、手仕事であり、アートはこれから間違いなく成長産業になると私は確信している。
 
その一助に私の人生がなるのであれば、これ幸いに思う。
 
チャオ