あーーー
苦しかった、本当に長いトンネルだった。
1年以上は生きた心地がしなかったし、キツかったよ、泣いてたし、苦しんだ。
やっとこさ、ここ数ヶ月は気持ちが晴れてきて、調子が戻ってきたので、こうやって言語化して書き残しておきたいと思う。
この事自体が自分の後学のためにも、また、どこかの誰かが見て少しでも気が楽になってもらえられたら嬉しいなと思い、書き留めておく。
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確か、あれは高校生くらいの頃だったかな、ラジオをよく聞いていた私は、パーソナリティのSOPHIAの松岡さんのMCを楽しく聞いていた。
そのSOPHIAの人気だった曲、『ビューティフル』。
特にこのフレーズを気に入っていた。
『死にたくなる程嫌な事なんて一つもないぜ』
この歌詞を聴いていて昆虫好きで現実的な当時の私はそうだよな、と。
死にたくなる程嫌な事なんて、そうそうないよな、と思っていた。
親族に色々あったり、多少の病気を患ったりして色んな苦労や苦痛を味わったと思うし、経験もしてきたのだけども、35歳くらいまではまあ総じて良い感じに歩んでいたのだなと今は思う。
2018年は本当に調子が良かった、過去最高くらいに楽しかった。
思い通りに仕事もプライベートも進行していて、スムーズに物事が進むし、やる事なす事が本当に自分中心に回っているとすら勘違いするほど、とても順調だった。
自伝本をつくってみたり、地方移住の計画を進めたり、家族や親族に対しても、友人たちに対しても色々なケアができて、『あー幸せだな』と思っていた。
そして迎えた2019年。
前年からの準備も整い、2019年3月前半に長崎県の壱岐島への移住を決めて、引っ越しの準備を行い、あとは実際に動くだけ!というタイミングだった。
引越しの1週間前に、当時の経営していた会社での大型のイベントを控えていたところで、トラブルが発生。
関係各社へのお詫び行脚と対応に追われ、引越しの直前なのに、バタバタして大変な思いもしたが、ベンチャー耐性がついているので、トラブル対応もこういう自体も慣れており、対応自体はつつがなくできた・・・つもりだった。
壱岐島へ引っ越し、楽しい日々が始まった。
理想としての田舎暮らし、そして、海外での事業ローンチに向けた準備。香港でのイベントへの大企業担当者のアテンドをしたり、関係者を回って香港での事業開始に向けて着実に進んでいました。
2019年5月、香港での民主化運動が活発化し始め、大型のデモが頻発するようになる。
香港での事業展開に向けての準備を進めながら、壱岐島から長崎空港経由で香港へ行き来するという生活をしつつ、都内での役員会やら事業推進をしつつと、適度に忙しく、リモートワークにも慣れてきて、充実してるし楽しいなと思っていた。
ただ、足元で確実に歪みがあったのだと思うし、自分自身は気づかずにそれは進行していた。自分の慢心、そしてチームとの不協和音がひろがってきていたのだ。
2019年の夏のある日、共同代表からの相談の打診があり、代表を降りる決断をした。
そして、私は定職を失くして、突然暇になった。
当然ながら、固定費をまかなう給与もなくなるし、ガクッと収入は減ることになった。
時間的にも金銭的にもある程度余裕がある状態から、急遽で遠隔(壱岐島に住みながら仕事探しをしなきゃいけなくなった)での仕事探しに奔走することになる。
自分でも笑ってしまうくらいに動揺した。
ことの重大さが、日増しに大きくなる、家族もあるし、日々の生活コストは確実にのしかかってくる。
その時の個人の銀行残高は、前年までの投資と浪費で2桁万円しかなく、本当にヒヤヒヤな状況。
そして、表向き上手くいってるように振る舞わなきゃ行けない自分の立場(なにせ、エンジェル投資家だし、自叙伝まで偉そうに出してるキラキラな成功者を演出しなきゃだし、カッコ悪いこと言えないし、できないよ!と思ってたw)から。
この綱渡りな中、ストレスでメンタルはボロボロに。
2019年は、壱岐島から都内にきてイベントやら会議やらに参加するのだが、都内の滞在は昔から仲良し(だと私は思ってる起業家なのだが)のお家を借りて寝泊まりをさせてもらっていた。
彼には本当に世話になりまくった。感謝しかないし、彼は本物の兄弟くらいにこれからも大切にしたいと思う。(後述する)
人には相談できないこと(自分のせいだし、お金の話だし、全て自己責任だからね)で仕事が終わって夕食を一人で取るときに、不安な気持ちが押し寄せてきて涙が止まらないなんてこともあった。
そのうちに、体調もおかしくなる。
夜、寝られないのだ。
今まで寝る時間を惜しんで働き続けてきた。本当に仕事が好きだったし、寝ないでよければいつまでも仕事をしていた20代には、考えられないことだ。
なにせ、時間はあるのに、寝れないのだから。
22時に布団に入る。目覚めると、23時過ぎだ。
あれ??
再度寝る。寝られない。布団に入っている、頭の中がグルグルする。
寝られない。外が徐々に白んでくる、もう朝になっている。
長い夜だった、寝られなかったな、今夜も。となる。
こんな日々が度々続いた。1ヶ月くらいは連日だったし、治ったかな?と思ってもまた寝れないという毎日。
睡眠薬を飲んでみたりした。
アイマスクや耳栓を買って持ち歩いて使ってみた。
心療内科にもかかってみた(が、その病院の医師の方が危な感じの人でそれきり行かなかった。日比谷のメンタルクリニックは私には合わなかった)。
何をやってもダメだなと、本気で死にたいと思った。
もちろん、リアルに死ぬチャレンジもした。
ちょっと高いところから飛ぶ準備もしてみたw
朝5時に大きなマンションの屋上に登ってみて、飛び降りるようとしたりね。
(住民からしたら迷惑な話だよね)
この寝れない状態は治るまですごく時間がかかった。
確か、2019年10月くらいから、2020年冬くらいまではそんな感じだったかも。
このとき、同居させてくれた起業家が、本当に優しかった。
彼は、東京滞在中の私と雑魚寝みたいな感じで同じ部屋に泊まらせてくれて、何も言わずに話を聴いてくれたり、全面的に助けてくれた。
寝られない夜に夜中に悶えていても、無視してくれた。
朝にはホットミルクを出してくたり、プロテインをつくってくれたりして、支えてくれた。彼がいなかったら衝動的に死んでてもおかしくなかったなと思う。
本当にありがたかった。ありがとう!K君。
壱岐島に住んで、地方を活性化させるぞ!世界の舞台で仕事して大きなことを成すぞ!と大志を抱いて大きく出たのに、完全に空振り。
ダサい負けを喫した。
2020年3月末、SNS等では公にせず、また、身内程度にだけそっと伝えて、壱岐島から東京に住まいを戻した。子供の小学校の入学やら色々な言い訳も手伝って、早く東京に戻りたかった。
その真実は、仕事だ。お金の話だ。
東京で仕事をして稼ぐ必要があったし、ちゃんと仕事しないとヤバかったからだ。
壱岐島はいいところだったし、今でも大好きだ。
でも、私には東京での仕事やビジネスが好きだし、向いてる。
そして、ありがたいことに私と一緒に仕事をしたいと言ってくださる奇特な方もおられるのだ。
それが理由で東京に戻ったし、戻りたかった。自分の存在価値を認めて欲しかったから。
あーーー苦しかった。
本当に死んでたかもしれない(笑)
私はこの苦しいトンネルを経験して思ったことをまとめると・・・
そんな人生は思い通りに行くわけないのだ。
苦労はするものであるし、辛いことはある。
死にたくなる程、嫌なことはこの世にある。
でも、そのときに誰かが支えてくれるはず、そういう仲間や友達や家族がいるかどうか、そういう存在をそれまでにつくれているかどうか、助けてくださいと言えるかどうかがめちゃくちゃ大事だって思う。
そういう仲間や人間関係を持てるように、今日も生きたいし、そういう辛い想いをしてる存在に寄り添える人間でいたいなと私は思うようになりました。
『生きてて良かった』と心から言える日が今日迎えられて嬉しいです。
生きてて良かった、、、
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追記
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大変多くの反響を頂いて、驚いていると同時に、やっぱりキツいことってみんなあるんだよなって思いました。
起業家属性の頼る場のない不安定さ(会社=自分自身)ということは、会社の業績や自分の立ち居振る舞いが直結していることはめちゃくちゃ頑張れる一方で、その役職(ロール)を奪われた時の喪失感も同時にとんでもないものです。取引先や従業員、関係者への本心の説明や背景情報を伝えられないことは、想像以上に、心を蝕みます。
お金のことも当然大事ですが、それよりも、一番大きいのは人間関係と信頼関係の毀損です。私も今回、本当にそのことが辛かった。
身が裂かれるほどの辛さがあり、頭で認識している以上に、心には大きなダメージを負ったようです。過呼吸になり、また、不眠になり、と。
私自身のケースで言うと、すでに、2019年夏終わりから体調がおかしくなり不眠に。2020年4月から家族と一緒に都内で暮らしはじめることができたこと、コロナでの在宅ワーク期間にて徐々に体調と精神が回復してきたように思います。徐々に不眠もなくなってきて2021年の春からは前向きな気持ちになれて、また、元気に動けるようになってきたと時系列で理解しています。(あくまで目安なので実際にはわかりませんが)
実体験として、深刻な鬱状態(※私自身は医師に鬱と診断されたわけではないため、本当の鬱病ではない可能性大)のような形になると回復するまでに2年程度はかかると思った方が良いのかなと思います。
本当に長い時間、苦しかったなと思いますし、振り返ってそう感じるというレベルには今はトンネルを抜けています。
2021年10月時点では、複数の企業の役員と顧問をさせていただき、仕事も充実しております。
また、2021年前半にはエンジェル投資先の大型のイグジット案件もあり、資金的にも余裕がある状態になれています。(普通にアラフォーの平均貯金額程度ですが)
心身と物心の両面での余裕ができたこと、それによってこのようなブログをかけて公開できたこと自体が、私なりの社会復帰の発信となります。
今、まだトンネルのなかで苦しんでいる方も多くいると思います。
本当にその苦しみは、理由なく涙が出たり、信頼してる人に気持ちを打ち明けられなかったり、過去の楽しかったことを思い出して鬱々としたり・・・本当に辛いことかと思います。
でも、明けない夜はない、必ず、元気になれる日が訪れます。
生きてください、生きていたら、楽しいと笑える日が来ます。
美味しいと料理を楽しんだり、友と語り合える日が来ます。
その日まで、寝て、サボって、言い訳して、生き延びてください。
自分にだけ素直であれば、生きてさえいれば、きっと社会復帰できる、と私は思います。
私の苦悩の日々の詳しい解説記事は、オンラインサロンのみで公開しております。
有償ではありますが、業界で有名な事件なので、ご理解ください。
2018年12月から2021年11月までの『逆境のビジネス略歴』を語ろう。
①2018年から嵐前夜
②嵐が吹き荒れて、その雨風はやがて大河になった
③人は何故、生きて死んでいくのだろうか? Born to Die.
この内容を読みたい!という方は私が主催する【The First Angel Investor】というオンラインサロンをご参照ください。
では、またどこかでリアルにお会いできる日を楽しみにしております^^ チャオ!