齢三十七にして天命を知る。
齢37歳にして、いよいよ、天命を悟ったのかもしれません。
まんざら当たらずも遠からず、という感じで今は思っていますが、さて、どうやら(笑)
ただ、昨日みた作品は作り手の名匠とともに圧倒的に凄すぎる存在としてそこにおられ、彼らが生み出した自信作の展示品に見惚れて激しい刺激を受けたというのが私の正直な感想です。
ホンモノは、いつの世も圧倒的な力を帯びています。
そして、そのホンモノは創られてから100年経とうと、また、1000年経とうとも、全く色褪せることなく、また、その素晴らしい作品を生み出した作者の技と想いとを後世を生きる人へ見せて伝えることができます。
私は、ベンチャー企業を支援するというライフワークを行っています。
起業家が、どういう想いでベンチャーを生み出したのか、その志に共に震えて応援をさせてもらい、彼らのサービスを世に広めたいと思う。
その根底には、常に、この書籍にある言葉『【後世の最大遺物】を創っていけてるのか?』という問いが、私を支えています。
すでに、没後90年を越える偉人であり、彼の講演録である内村鑑三 後世への最大遺物(1897)は、発表されて既に100年をゆうにこえる名著です。
この書籍の一節にある、言葉はあまりに有名であり、私はこれを読んで当時涙したのを覚えています。
「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより、世の中を少しなりともよくして往こうではないか」
この逸話を読んだ私の心に一番最初に浮かんできたイメージは、死んだ父のことでした。
父との想い出は、本当に多くある。
私は父が好きでしたし、父も私を可愛がってくれていたと思う。その父が私以外の方々と共有した彼の人生の時間も、相当に濃い実りあるものだったのだろう。
父のエッセイがそれを物語ってるように思うし、父の残した科学の足跡の数々は彼の生きた時を肯定するものだと思っている。
さて、話が横道に逸れてしまった。
最近、閃いた私なりの人類の分類方法があります。
それはそれぞれの特徴に応じて、人類を三種類に分けることができる、というものです。
本説は、まだ仮説の域を出ないのですが、我ながら非常に趣に富んだ考え方だなと自画自賛の状態ですので、ご笑覧いただき、是非とも感想なり反論なりのご意見を頂戴したいです。
では、この論説を説明する背景情報を共有させていただき、進めたいきたいと思います。
学生時代の私の人生の目的は、【人類を科学の力で進歩させる】でした。
それは昆虫の分類学という、基礎的な科学の発展を自らの手で進めることで、人類に貢献したいということでした。(科学者)
ただ、21歳の時の父の死や私自身の考え方の変遷により、やりたいことを【昆虫博士になりたい人を応援/支援する】に変化させました。
それはつまり、自分が科学者になり研究に没頭する生き方をするのではなく、ビジネス環境や一般社会の中で生きて(一般人として)、そこでの知見や得た富を科学の発展に投じていこうということにしたのです。
そして、そのビジネスをやっていく道すがらで、ヒョンなことから出会った芸術家との出会いがまた私の考えを変えていきました。
芸術家という生き方をする方々は、作品制作の過程における多くの時間を一人きりで行い、その間の一切の孤独を受け入れ、自分の頭と心の中に浮かんだイメージを絵や造形物、音や詩などに載せて、まわりの他の人に多くの場合は言葉以外の伝達方法で伝える人たちなのです。
さて、少しここでまとめると、以下三種の人物が登場しましたね。
・科学者
・一般人
・芸術家
ざざっと登場人物を整理してみましたが、私自身の人生の歩みの過程によって、3つの人の分類があることに気づいたのです。
つまり、我々人類を強引に3つに分類すると、
- 【①科学者】 0.03%程度の、天才科学者とそれに類する人たち
- 【②芸術家】 3%程度の、芸術家、アーティストたち
- 【③一般人】 残り97%の、私を含む一般の凡人たち
ということになります。
この3種の人たちはそれぞれに生きる価値と人類への異なる貢献の仕方があると私は思っている。
ちょっとだけ、野暮な説明になってしまうのですが、①と②の方々は、③の存在が無ければ、成立しません。
なぜなら、①の人たちを支えるのは③の多くの人類の生み出した生産物(エネルギー、食品、生活インフラ等)によって生活が出来ており、③無くして①と②は成立しません。
そして、一方の③の我々は、①と②の存在が無ければ、人類種としての進化・進歩がなく目の前の社会問題や環境問題においてなす術もなく滅んで行くか弱い存在でしかない。
更にいうと、①と②もそれぞれが相互に刺激し合う関係である。①の進歩によって手法や技術を変えて②は工夫を凝らす。②のアイデアや視点により①もまた科学を新しく進化させることとなる。
この三者の関係は地球上の生物種における生態系と同じように、①も②も③も絶対に人類の存続と発展に不可欠な存在なのである。
そういう意味では、3つの分類された人類全てが生きる役割が異なって存在しているというか、天命がそれぞれにあるのだと思う。
それぞれにおいて人生の使い方がそれぞれにあるんじゃないかなと思っている。
さて、話が壮大になってきてしまった。
そろそろまとめに入りたい。
私が好きな【“働く”という言葉の語源に関する逸話】がある。
それは、孫泰蔵氏が話しておられたもので、大変納得感のあるものであり、私の仕事観に大きく影響した話だったので、ここで是非とも共有したい。
江戸時代、平和な日本国では、多くの町人は日々の生活において、さまざまな仕事に従事していた。
彼らは、『そんなことは朝飯前だぜ』などということを言いながら、日々の仕事をしていようだ。
彼らにとって【働く】という言葉は、【側(はた)を楽(らく)にする=側楽(はたらく)】という意味だったというのである。
この側(はた)とは、身のまわりの人たちのことを意味している。
つまり、【働くこと】とは、まわりの人が暮らしやすく、もっというと生き易くするために、【はたらく】のである。
この話を聞いたときに私の腹にこの逸話はストンと落ち、身体に沁み込んだ。
なぜなら、120%の共感があったからだ。
そもそも私自身は、自分のためには一切頑張れない人間だからだ。
自分の欲のため、名誉のため、お金のためなんかに、全然頑張れない。一生懸命になれない。
いつも、他人のことを、身の回りの人のことが動機付けになる。
そうでないと、楽しくないし、ヤリガイを感じない。やる気が出ないのだ。
コレってみんなが持っている感情なのではないだろうか?
人類という種族は、他者貢献をする事がプログラミングされた生き物で、他者から受ける感謝や感動による原動力が生きる糧になっている種族なのではないか?と。
私事でいうとまわりの人たちが、『助かったよ!ありがとう!』と言ってくれたり、『山口さんがいてくれて良かった!』と言ってくれたらとても嬉しい気持ちになるし、生きててよかったなぁと実感する。
人によっては、そんな他者評価にいちいち影響をうけるのは『大人じゃない!』とお叱りを受けるかもしれません。
一方で『そんなのは大人じゃない!』とお叱りを受けたとしても、私は大真面目に“自分自身は既に大人である”という自負があります。
その反論にお答えするためにも、前提として私の思う【大人】の定義を共有しておきたい。
私にとって大人とは、『自分自身の特性を理解し、自分を取り扱える人物』のことだからだ。
私は逆境のビジネス略歴の日々を通じて、確実に自分自身のことを一つ一つ理解してきた。
時に死ぬ思いをしながらも、自分自身が何が好きで、どういう状態が嫌いかを一つ一つ不器用に学びながら人生を歩んできたから、そう思えています。
・・・
福岡への出張の飛行機内で書いているからか、話があちこちに逸れてしまってますね、、、
この文章を書く当初の目的は今日2021年11月6日に東京の六本木ヒルズで開催されているアートイベントにぜひ足を運んでいただきたい!ということでかきはじめたのだが。
今日このイベントの場にて、とんでもない生ける伝説の名匠の日本人たちとその作品に出会えることだろう。
その方々の生き様を見て、感じて、どのような想いを持たれるのか、とても楽しみである。
最後に一言。
今まで生きてきて私自身の天命は、
【全ての人がハタラク事を楽しんで生きて死んで行ける人類社会】を創ること、だ。
その為には、自分の持ち場でシッカリと付加価値をうみだして、利益を得る。
その利益から生み出される新規投資予算と報酬をもとに、
科学者には寄付を、
芸術家には作品購買を、
起業家にはエンジェル投資と事業支援を、
適宜おこなっていきたい。
それによって結果として全ての人が幸せを感じられるハタラク人類社会を私は創っていきたいと思います。
チャオ!