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ビジネスモデルまにあ

右脳のアートと左脳のアート、どちらも素晴らしい。が、私は左脳のアートが好き。

昨日は、アート談義が楽しかったし、ワインを飲んでも悪酔いしかなった。

いい夜だった、酔って覚えてない部分も多いけど。

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オフィスアート

 

さて、アートコレクションを始めて、もう6年くらい経った。

このタイミングで、自分のコレクションをちゃんとまとめて整理したいなと思ってきたので、以下のように定義をしていこうと思って、ここに備忘録的に、記そうと思う。

 

タイトルが最初から結論づいているので、まずは、アート作品を大きく大別して2つに分類したい。

 

・右脳のアート

感情表現の絵画や物体、メメントモリのような死の描写や想像上の地獄や極楽の表現、愛や恋や怒り喜怒哀楽を示す人間ならではの感情を表した作品

・左脳のアート

錬金術からはじまったとされる原始科学から派生して各種の技術を駆使した作品、金工や木彫などの利用する画材の素材特徴を活かした作品、自然の動物や植物、山海の模写

 

そもそものアートの歴史を知るのに、この書籍が非常に役立つ。

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上記の書籍と合わせて、会計もアートと同時期に同様に進化してきていることが分かるので、合わせて読むとより楽しいです。

amzn.to

 

今のアートマーケットの由来は、ヨーロッパでの宗教画が基礎になってできている。

カルビン、ルターのプロテスタントたちによるキリスト教内の宗教革命によって起こされた、古典キリスト教への回帰を狙った運動によって、十戒に示されている一つ、『偶像崇拝の禁止』を明確にした彼らの運動は、それまでの教会美術に従事していた芸術家の生き方を根底から変えることになった。

それまでは、教会や宗教的なものを壁画を描いたり、作っていたら生計を立てれて暮らしていけたのが、教会の壁の絵や装飾品を壊されてしまい、教会の仕事が無くなった芸術家は、食うに困って、民衆・大衆向けの作品を作り、販売するようになる。

これが、今のアートの始まりになるのだ。

 

ここで起きた大革命は、2つ。

①アート作品の対象が宗教・教会から、個人に変わった

②壁画や建物への装飾だった不動産から、額に入った絵画や彫刻像などの動産に変わった

 

これにより、急速にアートが一般大衆化するのである。

かの有名なフィルメールの作品の、パンに牛乳を注ぐ女の絵は、絵画代をパンの現物で払われて、パン屋にかけられた絵だったというのだから、時代感とアートの始まりのきっかけが実に興味深い。

 

さて、そんなアートは、写実的なものが最初はメインであった。

人物画や自画像などは分かりやすく、写真やらデジタル的なものがない時代に、情報伝達の一つとして絵はとても有効だったのだろう。

また、ナポレオンのように自分の権威づけをするために、絵を描かせた例もあり、そういう時のメディアとして、大きな絵画が機能したというのもおもしろいなと思う。

 

さて話がズレてしまったが、このようなアートの源流から、実は科学が生まれた、というと更に混乱されるだろうが、実はそうなのである。

錬金術師というと、漫画のタイトルになっていたり、それこそ、中世の怪しい魔女的な人を想像されたり、スチームボーイ(映画)のようなイメージを持つ方がいるだろうが、あれも、まさに金という希少鉱物を研究して、他の素材から人工的に生み出せないかと当時の人たちが一攫千金を求めて繰り広げた知的探求の最たる活動だろう。

そういう方々の知見、研究の積み重ねは、金を生み出すというゴールに対しては失敗に終わるが、それの過程において多くの人類の発見があり、現在の科学の基礎になっているのだ。

 

キリスト教会に力とお金があった時代、教会に務める芸術家は、日々、画材やら素材を研究し、より良い作品を作ろうと努力をしていたわけである。そういう方々が研鑽した積み重ねが、金属加工の可能性をさらに拡げたり、黄金比の発見に繋がったり、幾何学模様のデザインや目の錯覚、動植物の生態への研究などに派生していくのである。(遺伝の発見者である、メンデルは教会の神父であったし、昔のインテリ層の多くの研究者は、教会関係者である。)

 

アートがサイエンスの母であり、サイエンスは新しいアート(絵の具が進化した現代アートやデジタルアート)の父である、というと言い過ぎかもしれないが、それほど、密接に関わっているのだ。

 

話をタイトルに戻すと、私はアートが好きだし、サイエンスがもっと好きだ。

でも、源流は同じであって、人類の探究心であり、好奇心だ。

 

私はコレから生きている限り、左脳アートを集め続けようと思っている。

ビジネスでしっかり稼いだら、左脳のアート、職人や匠の技をふんだんに取り入れた名品を集めて、100年後の人類に遺したいと思う。

 

名品を後世に遺すと言えば、我々日本人は、世界で唯一の人種だとある古美術商の話を聞いて笑ってしまった。

 

古美術商:

『日本では芸術品が空を飛ぶんですよ、一方で海外では芸術品は地中から見つかります。』

私:

『どういうことですか?』

古美術商:

『日本人は名品を弟子や子々孫々に語り継いで渡していきます。もし家が没落するような時には、お世話になった人や縁者に名品を譲ったりして、空中を移動します。

一方で海外では、女子供を殺させている間に、芸術品を見つからないように埋めるそうです。女子供はまた出来るけど、芸術品や名品は換えが効かないから敵に見つからないように地中に埋めて隠すんですよね。

世界でも、日本のような芸術品が伝えられている場所は無いそうです。』

私:

『なるほど・・・ それはとても誇らしいですね!この島に生まれて良かったです』

 

また、日本人が美術品を意識したのは、ちょうど150年ほど前の、パリ万博に日本展示がされたところから、という話が興味深かった。

これは、1850年ごろに、パリで開かれた万博の際に、日本も初めて展示を行った際に、島津家の家紋をあしらった展示があり、それをヴィトンのデザイナーがみて、かの有名なモノグラムを作ったという話は有名だろう。

このパリ万博に、日本から出展された陶器や絵画に対して、関税をかける際に、担当官が書いた帳簿への記載が『美術品』だったため、現在でも日本ではアート=美術品という認識をされている。

 

ただ、アートという表現が持つ意味合いは、当然ながら、美しいものだけではなく、様々なものを含有する言葉のため、アート(=美術品)と聞いて期待したものと、実態のものの差があったりすることが発生する。

そもそも、その対象物(=アート作品)が美しくないぞ?と感じたり、アート作品を美術品という表現で捉えると、違和感しかないものがたくさんある。

世界で一番高い便器と言われた作品や現代アートやデジタルアートなどは、美しさというよりも、現在社会の課題や違和感へのアンチテーゼ的なメッセージとしての伝達手段がアートだったりしてる。

そういう意味では、アートの多様性(元来、多様なものだったが)が既成概念や各個人の思い込みによって、枠ができてしまっているのかもしれないし、その枠を取っ払えたら、もっとアート業界(=美術業界)の成長の可能性があるのでは無いかと私個人として思います。

 

さて、話があちこちにいってしまったが、アートは楽しいし、作家にお金を回したいし、本当にやってて良かったと心から思える趣味だ。

 

チャオ!